第87話 頼みの綱
「いらっしゃい」
マスターさんは何事もなかったかのように僕を迎え入れた。この世界で、僕はマスターさんと初めて会うはずだ。それなのに、彼女の対応は最初から全て分かっているかのようだった。
「何にする?」
「オレンジジュースで」
僕はカウンターに座っていたアスさんの隣に腰掛けた。彼も僕を気にする素振りを見せない。僕は自分が幽霊にでもなったかのようだった。
「どうぞ」
目の前に運ばれたジュースに口をつける。プチプチという果肉の存在はここでも変わらない。変わらないものに、僕は少し安心した。
「それで、相談があるんじゃないかな?」
「はい」
やはりマスターさんには敵わない。
「それは精霊王なのかもしれないね」
「精霊王?」
「そう。彼は気分屋だから。面白いものを見つけて、ちょっとからかいたかったのよ」
からかいたかったから。そんな理由で、僕は願いを叶えられてしまったのだろうか。今ではもう望んでいない願いでも。
「元の世界に戻りたいんです」
「そうだよね。それならお願いしに行くしかないかな」
「マスターであれば、対応できるのではないでしょうか?」
「残念ながら、もう久しいからね」
それはまるで、精霊王と関わりがあったかのように話が進んでいく。
「知らなかった? これでも私、精霊なんだ」
その言葉は、いつもそばにいた小さな存在を思い出させた。あの子も精霊だった。最後の最後になって、ようやくそのことを知った。
「精霊はね、昔は人と一緒に生きていたんだ。だんだん生活する場所が変わっていって、今はそのほとんどが精霊王の森に
「でも、マスターさんは対応できないんですよね。スミなら……可能でしょうか?」
精霊がどんな生き物なのか、僕にはよく分からない。この世界の僕は、スミに会うことができていない。
「そこまでは私も分からない。スミという子は、精霊なのかしら?」
「スミが……分からないんですか?」
僕のことは最初から知ったように話していた。それならばスミのことだって。
「ボクのことは一目見た瞬間に思い出した。そういうものだから。だから会ったことのない子のことは分からない」
「それじゃあ……」
「これからどうなるかはボク次第だね。案内は、そこに座っている賢者の卵に任せるから」
「私ですか?」
「ええ。問題ないでしょう?」
「……構いませんよ」
アスさんは立ちあがると、僕の肩を叩いて扉へと向かった。
「行きましょうか」
彼が連れて行ってくれたのは森と砂漠の狭間。ラヴィボンドさんが依頼で案内してくれて、世界を救うために僕が何度も迷いながら辿り着いた、木の根が
その大窓の淵から、彼は身を乗り出すように外を眺めた。さわさわと吹く風は変わらず、遥か下にある木々が揺れている。
「さあ、お手をどうぞ」
今にも足を滑らせそうな位置からアスさんが手を伸ばす。
「どこへ行くんですか?」
「精霊たちが棲む世界ですね」
「それって……?」
確かマスターさんが言っていたのは精霊王の森。そしてこの場所で森といえば……。
「もちろん。落ちますよ!」
アスさんに手を引かれて、僕たちは大窓の淵から落ちた。自然の法則に従ってその体は勢いを増す。足元に空が、頭上に森が。真っ逆さまの状態で、景色が止まっているように見えた。
「さあ、背筋を伸ばして」
アスさんの手に引き寄せられて、僕は彼にしがみついた。
「そろそろ浮上しますよ」
体が風の抵抗を受けてひっくり返り、ふわりと軽く宙に浮いた。
「ご気分はいかがですか?」
「だい……じょうぶです……」
アスさんの腕に抱えられて、僕はその意識をどうにか保った。風の音、葉の擦れ、鳥の声が聞こえる。ゆっくり大地に降り立つと、木々は予想よりもはるかに大きかった。手の届く範囲に枝はなく、高く伸びた幹のその先に茂った葉っぱが光を遮る。
「さあ、進みましょう」
広い森の中、僕はアスさんの後ろ姿を追いかけた。
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