第81話 再び動き出す魔術式

 魔術式を確認するように、スミが肩から飛び降りた。一通り魔術式の匂いを嗅ぎ終えて、その中心に座れと指示を出すかのようにこっちを見ながら床を叩く。


「スミって本当は何者なの?」


 返事が来ることはないと分かっていても、どうしても尋ねてみたいときはある。僕はスミの様子に笑いながら、指示された場所に座り込んだ。それに満足したようで、スミは胡坐の上に乗り、頭を膝に預けてくつろいだ。その警戒心も危機感もない様子は、この部屋の静けさと相まって現実の世界から切り離されてしまったかのようだ。実際にはそうなのかもしれないが。


 呑気なスミの様子に安心したのか、僕も夢を見ていたのかもしれない。


「これで良いの?」


 心配そうな女の人の声だった。


「大丈夫。これでちゃんと動くはずだ」


 その返事をするのは、落ち着いた男の人の声。


「でもこれじゃあ……、魔力が無くなってしまうよ」


「人はそう簡単に死なないよ。それにこの方法しか、もう残っていないんだから」


「それも……そうだけど……」


 交わされた二人の会話から、その様子が脳裏に浮かんだ。二人が目の前にしているのは、僕が座っている魔術式。


「何を心配することがあるんだい? 私は賢者だよ」


 そう話す男の人の姿は、お母さんによく似ている。


「それを言うなら私も賢者よ」


 そう話す女の人の姿は、僕とよく似ている。


「そうだったな……」


 二人の間に沈黙が続いた。お互いのことが手を取るように分かるのに、わざとそれを避けているように感じた。


「ねえ」


「もう何人もの命を見送ってしまったな」


「そうじゃなくて」


「ビルにフラーレン、カーラにセラフィナ。みんないい奴だった」


「聞いてよ……」


「これ以上は失いたくない。この世界が守れるのなら……それでいい」


 男の人の言葉は止まらなかった。どんなに女の人が止めようとも、彼は全て話し続けた。最後の言葉を聞いてしまったら、もう引き返すことはできない。


「君は離れて待っていて」


 女の人は動くことなく、ただその場でうずくまっていた。


「お願いだから。……フミカ」


 優しさで溢れた言葉。彼女だから分かる、語りきれない本当の気持ち。女の人は静かに立ち上がり、魔術式の外に出て振り返った。そのとびっきりの笑顔はあらゆる思いの全てを飲み込み、彼に向けた願いだけを表しているようだった。


「ありがとう。私は本当に幸せ者だ」


 それが男の人の最期の言葉。魔力が巡り、魔術式が輝き始める。まばゆい光がその姿を包み込んで、小さな粉となって世界に降り注いだ。


「私の方が幸せ者よ。あなたの妻になれたのだから」


 女の人は涙を流さなかった。幸せそうな表情で誰もいない魔術式へと目を向け、ゆっくりとこの部屋を後にした。


 ゆっくりと目を開けると、そこには誰もいなかった。魔術式の真ん中に座る僕と、その足の上でくつろぐスミ。


 幻覚のような世界は、僕の先祖の二人が生きていた世界。どうしてかその世界の中で、男の人の心が手に取るように分かった。この魔術式の本当の意味とその原理が僕の頭の中に詳しく刻まれ、そして今の僕ではこの魔術が扱えないことも分かってしまった。


「とうとうこの日が来てしまったようだね」


 僕の視界に映ったのは銀色に輝く長い髪。


「久しぶり」


 にこやかに笑う女性の顔に刻まれた深いしわ。まっすぐに伸びた背中とその体格から、その強さが溢れ出ている。


「自己紹介はまだだったね。私は炎の賢者と呼ばれている。入学式から随分と成長したようだ」


「えっ?」


「まあ、それは置いといて。本当に……これでいいのか?」


 膝を折った炎の賢者は、僕と目線を合わせて尋ねた。


「この魔術を発動すれば、最悪あなたは命を失う」


「僕は死ぬつもりなんてありません。大丈夫ですよ」


「……大丈夫だという根拠は?」


「なんとなくです」


 これは僕がしなければならないことだというのは、ずっと前から分かっていた。


「なんとなく、光の賢者がそう言ってくれた気がしたから」


 ただそれを認めたくない自分がいたから、確認という言葉を使って目を逸らしてきた。


「光の賢者を知っているのか?」


「夢で会っただけですよ」


「不思議なことを言うね」


「僕もそう思います」


 夢で会っただけ。言葉も交わしていない人物から受け取った感覚で、大丈夫だと言い切れるわけがない。それでもどこか、安心している自分がいる。


「ただ問題があって……。僕にはこの魔術を扱うことができません」


「それについては、そちらの方に任せればいい」


 彼女が示した先にいたのは、未だのんびりとくつろいでいるスミだった。


「スミ……ですか?」


「ええ。あなたならできますよね?」


「きゅう?」


「もうおとぼけになる必要はないでしょうに」


 そう言って彼女はスミの頭を撫でる。


「精霊は私たちの言葉を話せるし、人間よりも魔力の扱いはずっと上手い。この方に手伝ってもらえば、魔術式は問題なく動くはず」


 僕たちの話を理解しているのか、スミは気持ちよさげに撫でられているばかりで何も話そうとしない。


「できる?」


「きゅっ!」


 自信満々に返事をしたスミは、頑なに言葉を話そうとしない。それでもその意思は読み取れた。


「本当にいいんだね」


「はい」


 僕は笑った。不安が拭いきれたわけではない。この世界は最初から、僕に牙をむいていた。でもそれは僕の勘違いで、事実この世界は僕に何もしていなかった。僕がそう受け取ることしかできないような、狭い世界に住んでいただけ。


 僕はこの世界を救いたい。大切な人たちが生きるこの日常を失いたくない。


「では、私はあなた方の幸運を祈ろう」


 炎の賢者から流れてくる甘い香りが、僕の体を包み込む。それは体の内側で燃えるように輝き、僕の力となってくれた。


「スミ、行こう」


 魔力が流れ出る。体の奥底に隠されていた部屋をこじ開けられるように、今まで感じたことのない感覚が頭の先からつま先まで一気に突き抜けた。耳元でパチパチと音が鳴る。目の前で大量の火花が爆ぜる。震える指先は興奮によるものか、はたまたこの激流によるものか。


 全てをスミに委ねた僕は、ゆっくりと目を閉じて意識を手放した。

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