第80話 幻想の導き
一月。まだ空気が凍える中、僕は藤の橋を訪れた。今回は今までと違う。迷いなく目的を目指す今、その道筋はラヴィボンドさんに案内されているようだった。
外の天気なんて関係ない。この場所は彼と訪れた時と何も変わらなかった。藤の花はふらりと揺れて、内側から温かな光りを放つ。ピチピチと水が爆ぜるような音を立てながら、小さな雷が走った気がした。
真っ暗で音のない世界。赤い光は見えても、本来の姿は映されない。あの時はこの場所がひどく怖かったものだ。彼に頼りたくても頼れなくて、まだ自分の意思さえはっきりとしていなかった。
壁に手をついて進み続け、振り返れば随分と長い距離を歩いた気がする。いまいちその距離感は掴めないが、行けども行けども次の場所への扉が見つからない。
「…………」
このまま歩き続けたところで、扉は見つかるだろうか。立ち止まって壁を見つめていると、スミがあの方法を提案してきた。咥えられた鏡はいつも部屋に置いてあるもの。どうしてそれが手元にあるのかは分からないが、これで扉を見つけることができる。
鏡に魔術式を記し、この部屋を映し出すように魔力を流す。魔術式が飲み込まれ、現れた海の色は真っ黒だった。それは本当は青いのかもしれない。しかしこの部屋の赤い光では、正しい世界を判断することができなかった。
「どうしよう……」
扉を探す手段を失ってしまった。この方法以外、僕に思いつくものはない。手探りで探すにも、この長い廊下では不可能な話だった。
「きゅっ」
諦めかけていた僕に、鏡の中で光を放つものがあった。それは大きな角を携えた白い塊。暗い海を照らすその生き物は、とてつもなく巨大な羊だった。
どこを見ているのか分からないクリクリな目に、真っ白な毛は海の色に染まりながら漂う。ごつごつと渦巻くように
遠く離れていく羊に、また周囲の光が失われていく。僕はその姿を見届けることを諦めて、扉の場所に向かった。語り継がれてきた詩人の言葉は正しかった。海の中の羊の姿。かつての死神の物語を辿っていることを裏付けるように、その圧倒的な存在はいなくなっていた。
どうにか見つけることができた扉を抜けて、僕は明るい廊下へと出た。
明るい廊下は初等部の廊下とよく似ている。二年も通い続けても、その違いなんてよく分からない。ただ違うのは扉が飾りでしかないことなのに、どうしてかその先から様々な音が漏れている。
僕の目的はその扉ではないから。騒がしい音を無視してエレベーターへと進めた足が、ある言葉を耳にしてぴたりと止まった。それはこの廊下で一番騒がしいのではないかと思うほどの音が漏れている扉で、雨の音、雷に地響き、人々の叫び声の中にあの二人の賢者を呼ぶ声が聞こえた。
その扉の先の世界で何が起きているのか。それは確実に今起こっているものじゃない。でも今の世界の問題が解決しなかったら?
エレベーターで移動した先は
「きゅー!」
スミが僕のことを呼ぶ。足場の悪い中、その姿を見失わないように追いかけた。こうやって何度も導いてくれた。スミについて、僕は何も知らないのかもしれない。
蔦の森を迂回するように歩いていると、不意に足元の感覚が変わった。よく見れば足元は木の根ではなくなって、そのまま進んでいるうちに蔦の森の上から世界が見えた。僕が立っていたのはキノコの上で、それはこの空間の上の方までずっと続く。
ギゥーコー!
空気を震わせるような鳴き声。大きな木窓で切り取られた景色の中、雲一つない青空と太陽が
天を見上げて立つ鶏。立派な
ヴー!
今度は鶏の反対側。腹の底に響く音が森の木々を揺らす。ここまで突風を運んだ声の主は、いくら目を凝らしても見つけられない。
砂漠の鶏。詩人の言葉を信じるならば、森にいるのは鯨なのだろう。僕が目にしているこの事実からは、もう逃れることができない。
「行こう」
足が止まった僕を心配するように戻ってきたスミを肩に乗せて、僕はこの先へと急いだ。
木の根で覆われた天井の、その上へと抜けた先はひどく静かな景色だった。真っ白な床。白い雲で覆われた空。床はどこからか雲へと変わり、そこでは何匹もの鼠が泳いでいる。
ここが目的の場所。砂漠と森のちょうど狭間。この空間のどこかに、世界を救う錠があるらしい。一見何もないこの空間の、どこにそれがあるのだろうか。
カツンと軽い音を立て、一歩踏み出した僕の足元で何かが光った。しゃがんでそれを確認すれば、どうやらそれは僕が傷つけてしまった床の傷だったらしい。その小さな傷に触れた瞬間、それは円を描くように広がって床に大きな魔術式が現れた。
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