変わり目は脆く、繊細な時間

第61話 分岐点

 ラヴィボンドさんが退院した。久しぶりに会ったカフェに、彼は一人で来ていた。


「退院おめでとうございます」


「ありがとう。リアンのところに行ったんだってね」


 すでに話が回っていたようで、僕はあの日の様子について説明した。


「やっぱりダメだったか」


 僕が彼女の研究を止められなかったことはラヴィボンドさんの想定の内で、彼は笑って声を上げた。


「どうしたのかな?」


 反応もせずに一点を見つめていた僕の前で、彼はゆらゆらと手を振る。


「痛みは……ありませんか?」


 ラヴィボンドさんは片腕で食事をしていた。シャツの右腕は結ばれて、ただの飾りのように存在する。そこにあったたくましい腕は見る影もない。日常の仕草一つを行うにしても、彼にとっては不便で仕方ないはずだ。


「ああ、大丈夫だよ」


 予想していた通りの言葉が返ってきた。静かにほほ笑む彼は、いつもより元気がないように見えた。


「大丈夫だって」


 そんなことを言われたって、自分の意思で心の整理を付けられるわけではない。頭の上に乗せられた手は大きく、初めて彼と出会った時から変わらない温かさを持っていたが、それで心に空いた穴が埋まることもなかった。


「こういうのは時間が解決するって言うのかな。でも心配はしなくていいよ。ラヴィが暗い理由はまた別のところにあるから」


「今の私って暗いですか?」


「そうだね。分かりやすいほどに暗いよ」


「そうですか……」


 マスターさんの言葉に、ラヴィボンドさんは取り繕うことを止めて肩を落とした。いつもより元気がなかったのは何か原因があるらしい。マスターさんはいたずらっ子のような笑みを浮かべているし、そこまで深刻なものではないということだけは分かる。


「今度、日本に行けることになったんだ」


 ラヴィボンドさんはそれは申し訳なさそうな表情で打ち明けた。向こうの世界に行くには面倒が多く、許可が下りなければ旅行もできないから、ラヴィボンドさんの話は喜ばしいもののはず。


「手続きも費用も特に必要ない。この間のお詫びということで、面倒なことは全て賢者がしてくれる」


「良かったですね」


 日本に行ける上に面倒さえないともなれば、ラヴィボンドさんは何にそんな暗い顔をしているのだろうか。彼がどれほど日本が好きか、一年も一緒にいて分からないはずがなかった。何をするにも彼の視線の先には、日本に関する何かがあった。


「ただね……」


「ただ?」


 その異様な暗さに、僕は次の言葉を覚悟した。何が彼をここまで暗くさせるのだろう。


「いつここに帰ってくるのか決まっていないんだ。何年も先のことになるかもしれない……。そうなったら、サイラス君とももう会えなくなるかもしれない」


 もう会えなくなるかもしれない——。


「サイラス君も成長して学院を卒業するだろう? いつまでもここに来るとは限らないし、私が戻る頃には君も新しい生活をしているだろう」


「それは……」


「サイラス君と初めて会った時、そばに居てあげたいって思ったんだ。君の成長を近くで見守りたいって。君はまだ、世界の美しさを知らないだけだって教えてあげたかった」


 あの日から一年。暗闇で満ちた世界の中に、希望なんてどこにもなかった。僕が見つけられなかった光を、ラヴィボンドさんはいとも簡単に見つけてみせた。いくつもの光を届けられた世界は明るくなって、それ以来僕の世界には必ず彼の姿があった。


「君が自分から離れていくまで、ずっとそばにいようと思っていたのに。こんなことになるなんて思ってもいなかったよ」


「日本ですからね……。簡単には会えませんよね」


 彼にも彼の世界がある。僕の世界にずっと居てくれるわけではないのは当たり前のこと。そんな彼が、新しい世界へと足を伸ばそうとしている。


「私はね、こっちに残ろうかとも考えているんだ。日本に行かなくても研究は続けられるから」


 その笑顔は作り物。ずっと見てきたから分かる。彼は心の底から悩んでいる。彼の日本へ行きたいという世界を広げるための一歩を、僕が躊躇ためらわせてしまっている。このまま何もしなければ、僕の存在が彼の世界の呪いとなって尾を引くだろう。


「日本に行ってください。僕は大丈夫ですよ」


 僕は笑った。それは決して作り物ではない。


「ここにはマスターさんがいます。ノーマンさんもアスさんも、アリーさんもいるし、レコードさんとリアンさんもいます」


 たった一年のうちに出会った人々。


「ラヴィボンドさんが教えてくれた場所で、僕はたくさんの人に出会いました。僕は、もう一人じゃありません」


 僕の世界を照らしてくれる人は、ラヴィボンドさん一人ではなくなっていた。そこにはみんなの姿があって、みんなが明るい光を見せてくれる。


「僕は大丈夫です」


 僕は念を押すように答えた。それは彼の背中を押す言葉であり、自分の決意を固める言葉だ。


「そうだね。ありがとう」


 ラヴィボンドさんは笑った。それはいつもの笑顔だ。


「これで悩みも晴れたみたいだね。これからは時間も限られてくるだろうからさ、ちゃんと考えて過ごしなよ」


「もちろんです」


 僕たちはお互いに顔を見合わせた。たとえ他の人によって僕の世界が照らされていても、そこからラヴィボンドさんがいなくなることには変わらない。彼の光は僕にとって特別だったから。少しでも長く、彼と残された時間を過ごしたかった。

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