特別な日は特別な人との日常で

第55話 何でもない日

「きゅん!」


 足の怪我が治り、スミは僕の部屋を駆け回った。その元気な様子に僕は少しホッとしていた。あれからお母さんとは何も話せていない。僕たちは終始無言で、目も合わせることもなく気まずい空気が流れてしまう。どうにかお母さんにかける言葉を見つけようとするが、結局は何も言わずに部屋へ引き返していた。



「おはよう」


 時間はもうお昼。疲れ切った顔のお父さんが起きてきた。


「おはよう」


「おはよう。最近忙しそうね」


 二人っきりの時は会話がないのに、お父さんがいるだけでいつもと変わらない日常が訪れたかのようだ。ただその会話の中でも、僕たちがお互いに気遣う様子はない。僕とお母さんは最初から今のような関係だったのではと疑ってしまいたくなるほど、会話は違和感なく進む。


「向こうのことでバタバタしていてね、抜けられそうにないんだ。今年はもう休みはないだろうな」


「それじゃあ……どうするの?」


 お母さんは言葉を詰まらせた。今年後何があるのかといえば、僕の誕生日と年越しのお祭り。そのことを口に出してしまえば、必然的に僕と会話することになってしまう。


「サイラス、ごめんな。今年はお父さん抜きで過ごしてくれるか?」


「いいよ。僕もやりたいことがあるから」


 僕はお父さんに向かって笑顔で答えた。お母さんは僕のことが嫌になったのだろう。それならば僕から関わる必要はないじゃないか。お父さんと過ごせないことは少し残念だったが、嫌われていると知っていてお母さんと一緒にいはいられない。だから特に予定もやりたいこともなかったのに嘘をついた。


「そうか。やりたいことがあるのは良いことだ」


「お父さんも無理しないで、ちゃんと休んでね」


「ああ。努力する」


 僕の軽くついた嘘にお父さんは嬉しそうに笑った。そして視界の端のお母さんは、僕に背を向けたまま何も反応しなかった。もうここまで来てしまっては、その行為に何の感情も抱かない。


 誕生日。いつもと何も変わらない日常。無言の中お母さんを見送り、学院でも僕は一人。いつものようにスミだけはそばにいてくれて、楽しそうにはしゃぎまわった。


 特別なことなど何もない。ただ僕が生まれたという、一年の中の何でもない日。


「いらっしゃい」


 何でもない日でも、どうせなら特別なものにしたかった。だから僕にとって特別な場所に行くことにした。


「こんにちは」


「おう、久しぶりだな。そいつも元気になったようだな」


「きゅっ!」


 カフェにはノーマンさんも来ていた。暴れだしそうなスミを抱えて、僕はノーマンさんの隣に座った。


「そういえばボク、あれからラヴィには会ったかな?」


「えっ?」


「私たちはもう会いに行ったけど、ボクにはまだ病院を伝えていなかったなーと」


 ラヴィボンドさんのことはずっと気にかかっていた。彼に会いたいと何度も思ったが、どうしてもあの赤い記憶が離れなくて決断することができなかった。彼に会うということは何もできなかった自分に向き合わなければいけないということ。ノーマンさんの言葉を貰っても、そう簡単に心の整理はできなかった。


「会っても……いいんですか?」


 そこにはまだ戸惑いがあった。どんなに僕が躊躇ためらっていようとも、選ばなければならないときはやってくる。


「それなら今から案内しよう。病院まで送るだけでよければ」


「きゅっ!」


「……お願いします」


 ご飯を食べ終えていたノーマンさんが立ち上がり、椅子にかけていたコートに腕を通して扉へと向かった。僕がラヴィボンドさんに会いに行くのは、単純に彼の顔を見たかったからだ。彼の声を聞いて、話をしたかったからだ。


「ボク、これを持って行って」


「これは?」


「ラヴィへの差し入れ。彼に渡してくれたらいいよ」


「分かりました」


 マスターさんからそこそこ大きめなかごを受け取った。スミがクンクンと鼻を動かす様子を見ると、その中身は食べ物なのかもしれない。僕は扉を開けて待ってくれているノーマンさんのもとへ走った。


 学院の扉を抜けて僕たちは外に出た。曇り空の下は寒く、冷たい風が吹き付ける。前を歩くノーマンさんは、振り返ることなく道を進んだ。


 声を出さないから何を考えているか分からない。表情も見えないから何を感じているか分からない。だがそんなことは関係ないとでも言うように、両足を地面につけて立つ存在自体がノーマンさんを的確に示す。黙って歩く彼の背中はとても大きなものだった。


「色々考えただろう。今も考えてるだろう。これも整理する機会にするといい」


 しばらく歩くと僕たちは大きな病院に辿り着いた。


「病室は601だ。あいつによろしく言っといてくれ」


 わざわざ見送ってくれて、ノーマンさんが頼んだのはたったそれだけ。でもその言葉以上のものを、彼が望んでいるような気がした。


「ありがとうございました」


 ノーマンさんは僕の頭に手を置いて、元来た道を引き返していった。

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