第56話 誕生日の願い事

「……お邪魔します」


「おや、サイラス君! 久しぶりだね。元気にしてた?」


 ベッドから起き上がっていたラヴィボンドさんの顔色は良く、彼はいつも見せるような笑顔を見せてくれた。


「はい。その……ラヴィボンドさんは大丈夫ですか?」


 僕はその右腕を見つめた。かつて黒い塊に飲み込まれ、視界を赤く染めたその先を。


「ああ、大丈夫だよ。もう痛みもないからね」


 彼は軽く右腕を突き出した。その勢いに中身の無い袖が揺れる。いつも僕を包み込んでくれたラヴィボンドさんの温かな腕は、そこにはなかった。


「あとは一人で暮らせるように特訓しないとね!」


 手を握っては開いて、元気だと誇張するように左腕を見せるラヴィボンドさんの様子に、僕は笑顔を作ることしかできなかった。彼が元気でいてくれること、楽しそうに前を向いていてくれることが、ここでは何よりも大事なのだと思っていた。


「僕も何か手伝いますよ。慣れるまでは一人じゃ大変でしょう?」


 ラヴィボンドさんの表情が曇った。僕は何か言葉を間違えてしまっただろうか。


「私のことは気にしなくていい。それよりも、サイラス君は本当に大丈夫かい?」


 その言葉に、僕はもう笑顔を作ることができなくなった。彼は僕を心配してくれるが、僕がこうなっている原因を理解してくれてはいない。その原因を知っているのであれば、自分のことを棚に上げたりしないはずだ。


 心配そうに僕を見つめるラヴィボンドさんの瞳は純粋な眼差しそのもので、悪意はなくただ分かっていないだけのようだった。


「大丈夫ではないですよ」


「そうだよね、ごめんね。あんな怖い目に遭ったんだ」


 怖かったのは本当だ。あの黒い塊は、一目見ただけで近づいてはいけないものだと感じたんだ。それが僕たちを飲み込もうと暴れ回っていたんだから、怖くなかったわけがない。


「守ってあげられなくてごめんね」


 でも僕が一番怖かったのはそれではなかった。黒い塊が襲ってくることは怖かったが、何よりも怖かったのは目の前で力なく崩れ落ちるあなたの姿だった。


「そうじゃない……」


「えっ?」


 その困惑した表情は、僕が初めて見るものだった。


「僕は……、僕のせいであなたがいなくなってしまうことが怖かったんです」


 今でも思い出せば自然と涙が溢れてくる。ここのところ何回も泣いているというのに、涙が枯れるということはなかった。


「ラヴィボンドさんの腕が飲み込まれて、目の前が赤くなったんです。あんなに苦しそうな表情で倒れそうになった時は、もう会えないかもしれないって。あなたの声も温かさも、その光だって感じられなくなるのかって」


 勢いのまま吐き出した。ラヴィボンドさんにどう思われようが、その気持ちを抑えることはできなかった。


「あなたに分かりますか? 心が締め付けられるんです。ノーマンさんが居てくれなかったら、僕は今こうしてあなたの前に立つことさえできなかった!」


 心に留めて黙っていようと思っていた言葉まで溢れ出る。彼はどんな思いで、僕の言葉を聞いてくれているのだろうか。その表情を確かめるように、僕は顔を上げた。


「そうか……。ごめんな……」


 ラヴィボンドさんは困ったように笑っていた。彼の手は温かくて、乗せられた頭からあの時消えかかっていた光が流れ込んでくるよだった。


「ラヴィボンドさんは分かってないんです。僕のせいで傷つかないでください。もっと自分のことを、大切にしてください」


「うん。多分……サイラス君の思いを全ては理解できていないと思うけれど、努力するから……」


 優しそうな笑顔。やっぱりこの人には敵わない。この温かさに包まれてしまったら、もう彼の言葉を信じることしかできなかった。



「そういえば、ノーマンさんがよろしくって言っていましたよ。あと、これはマスターさんから」


 涙が止まった僕は、マスターさんから預かったかごを手渡した。物欲しそうにそれを見つめていたスミは、ラヴィボンドさんが寝ているベッドへと飛び移った。


「ありがとう。……なるほどね、サイラス君もどうぞ」


 中を確かめたラヴィボンドさんは、楽しそうにそれを見せた。かごの中にはシーサイトで食べた、マスターさん手作りのサンドイッチが並んでいた。


「これは、ラヴィボンドさんへの贈り物で……」


 断ろうとした僕の言葉に反発するように、くぅーっとお腹が主張した。そしてそれに同調して、スミが自分にも下さいとお腹の音の鳴き真似を繰り返す。


「これはサイラス君へのプレゼントでもあるみたいだから。遠慮はいらないよ」


 そう言うラヴィボンドさんの手には一枚の紙が握られていた。


「誕生日おめでとう」


 しびれを切らしたスミが顔を突っ込む前に、ラヴィボンドさんはサンドイッチを差し出した。


「どうして、それを?」


 誰にも教えたことはない。たとえカフェの人でも、そのことを知っている人はいないはずだった。


「マスターは何でもお見通し。どうしてかは私も分からない、かな」


 ラヴィボンドさんが見せた紙には僕に一言、お祝いのメッセージが書かれていた。


「とりあえず食べよう? 早くしないと、全部食べられてしまうよ?」


 ラヴィボンドさんと話しているうちに、スミは三つ目のサンドイッチに齧り付いていた。夢中で食べるその様子に、僕たちは顔を緩めてサンドイッチを手に取った。


「マスターのご飯って本当に美味しいよね。他のお店でも買えるようなものなのに、どうしてかマスターのものを食べたくなるんだよ」


「そうですね。僕も、マスターさんのご飯は好きです」


 彼女の作るサンドイッチは種類が豊富で、どれを食べようか迷ってしまう。キノコのアヒージョは香りが高く、トマトで煮込まれたアボカドはトロトロ。白身のフライからはチーズが伸びて、香ばしく煮込まれた豚肉の脂はその美味しさをパンにしみ込ませる。


 かごいっぱいに詰まっていたサンドイッチはあっという間に空になった。その半分以上はスミに食べられてしまって、小さな体はコロコロと簡単に転がりそうだ。


「美味しかったね」


「はい!」


 誕生日にラヴィボンドさんと話すことができて、しかもマスターさんの美味しいご飯も食べることができた。ここ最近は悩むことばかりだったけど、今の状況には満足していた。


「それで、私からも何かお祝いをしたいんだけど何も用意できてなくてね……。何かお願いを叶える、とかでもいいかな?」


「いえっそんな。僕はもう十分すぎるほど貰ってきたので……」


 ラヴィボンドさんと出会えたことが、僕にとってはプレゼントのようなもの。彼がこれまで一緒にいてくれたから、幸せを知っている今の僕があるんだ。


「ダメだよ、もっと欲張らないと。サイラス君は遠慮しすぎだ」


 欲張れだなんて。今でも十分欲張っていると思うのに、これでは足りないのだろうか。これ以上の幸せがあるのだろうか。たとえあったとして、それはわがままではないのだろうか。


「それなら……、一つだけお願いをしてもいいですか?」


「もちろん、私にできることなら」


 彼は胸を張って答えた。まだ僕が、どんなお願いをするのか知らないのに。


「もう、無茶をしないでください。僕を守るために傷つかないでほしいです」


 それは心からの願いだった。こうして向かい合って話すような、そんな幸せな時間を過ごしたい。この状態が壊れないことが、今僕が一番望んでいること。


「それは……分かった」


 ラヴィボンドさんはちょっぴり困ったような顔をした。これは彼が望んだような答えではない。僕もそれは分かっていたけど、この願い以外は思い浮かばないからどうしようもない。


「ただし、誕生日のお願いはまた別で。思いつかないのなら、また今度でいいから」


「分かりました。考えておきます」


 僕の言葉を聞いて、ラヴィボンドさんは満足そうに笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る