第54話 届かない言葉

「もうあの人たちと関わらないで」


 家に帰っても何も言わず、ただ黙っていた僕にお母さんは告げた。それでも僕は何も言うことができず、仕事に行くお母さんの後ろ姿を見送った。


 一人で食べる朝食。スミが一緒にいてくれるおかげで、その寂しさも感じなくなっていたはずなのに、どうしてか今日は心細くて仕方なかった。味のない朝食をおなかの中へと流し込んで、僕はいつも通り学院へ向かった。




 学院の状況は変わらなかった。僕を避ける人、からかう人。いつものように嫌がらせをしようとして失敗する人。僕は一人で授業を受けて、一人でお昼ご飯を食べた。誰とも会話を交わすことなく家へと帰り、いつも通りの一日を過ごした。


「きゅん……」


 ベッドの上で寝転んでいると、一日お留守番をしていたスミが顔を出した。


「ただいま」


 頭を撫でてあげると、スミも枕元で丸くなった。ゆっくりと息を吐いて、僕は目を閉じた。




 夢を見た。


 真っ暗な中を一人で歩く夢。


 誰もいない。何も感じない。それでも何かが絡みついてくる。


『久しぶりだね。死神クン』


「違う」


『君は死神だ。死神は災厄をもたらすんだ。だから彼は傷ついた』


「違う」


 体が重い。暗闇の中、もっとずっと深いところに引きずり込まれるようだった。


『全部お前のせいだ。貰ってばかりで何もできない』


「……違う」


『ただの愚図が存在する理由はあるのか?』


「…………」


 昔から一緒に生きてきた。自分を助けてくれていた、そしていつか乗り越えることができたその声が、ここにきて僕に刃を向ける。


「ラヴィボンドさんが……教えてくれたんだ。感じることを、考えることを止めちゃいけないんだって」


『それで? その当人はどうなった? 全部お前のせいだろう?』


「だけど……」


『認めているじゃないか』


「…………」


 心の声は自分の声。結局自分に向けられていた刃を持っていたのは、自分自身でしかなかった。


「きゅー!」


 心が痛くて苦しくて、身動きが取れなくなっていた。そんな闇の中で、小さな光が現れた。


『お前には何もできない。ここからも出られない』


「きゅきゅっ! きゅー!」


 眩しくて温かい、そして懐かしい光。元気で無邪気でそそっかしくて、そしていつもそばにいてくれた。


「きゅっ!」


 僕は光に手を伸ばして、ゆっくり目を開けた。目の前には天井があって、隣にはスミがいた。


「ありがとう」


 スミはすっとぼけるように甘えてきた。その頭を撫で、体をさする。僕はノーマンさんの言葉を思い出していた。




 次の日の放課後、僕は箱庭にいた。心の声に意識を引っ張られることが怖くて、どこへ行くにもスミを連れて行った。傷が痛むのか普段はおとなしくしているけど、僕の気分が落ち込みそうになると甘えるような声を出すようになった。


 お母さんの言いつけを破ってしまう。それでも行かなければならないと思ったから、僕はあの場所へ行くことができた。


 カラン


「いらっしゃい」


 コーヒーの香りが漂う。長期間離れていたわけでもないのに、この香り、この声が懐かしくて仕方がなかった。


「お前さん、大丈夫か?」


 泣き喚け、一人で抱えるな。ノーマンさんに教えられたように、涙が溢れて止まらなかった。


「おうおう泣け哭け。泣いたら話せ、な?」


 自分が歩くべき道も、今立っている場所さえ怪しかった。心配そうなスミの声も、今は聞いてあげられない。



「落ち着いたか?」


「はい……」


「で、どうした?」


 僕はゆっくり答えた。


「お母さんに、もう関わるなって言われました」


「そうか」


「僕は……ずっと一人でした。感じることも考えることも知らなくて、ただそこにあるだけの存在でした」


 かつての自分。ラヴィボンドさんと会っていなかったら変わらなかった。


「僕に生きることを教えてくれて、導いてくれた。でも何もできなかった」


「ん?」


「僕は何もできなくて、ただ守られるだけだった。それなのに離れなきゃいけないのは……」


 続きは言葉にならなかった。離れなきゃいけない状況に、僕は……。


「……分からなくなったか」


 ノーマンさんが長い息を吐いた。僕を見つめる瞳はひどく悲しそうだった。


「まず、何もできなかったことは悪いことじゃない」


「…………」


「お前さんがどう思おうと勝手だが、俺やラヴィは何もできなかったお前さんを悪いと思っていない。まだまだお子様で魔術の練習中のお前さんが何もできないのは当たり前で、俺たちはそれを理解している。そして俺たちが守りたいと思って、かつ守れる力があるから行動したまで。これは俺たちの勝手だ」


「それは……よく分かりません」


「今は覚えておくだけでいい」


 ノーマンさんやラヴィボンドさんの勝手だからと、そんな理由で納得できるわけがなかった。結果僕が何もできなかったことが、ラヴィボンドさんが怪我をする原因となったんじゃないか。


「そして離れなきゃなんねーのは、お前さんの母親の意見だろ。お前さんはどうしたいんだ?」


「えっ?」


「だから、母親の意見じゃなくてお前さんの意見はどうなんだ?」


「僕は……」


 僕の意見。どうしたいのか。離れるようにお母さんは言った。でも僕はそれに納得ができなくて、ただただ今の状況が嫌で仕方がなかった。


「きゅっ」


 僕の手に頭を押し付けてくる。スミが甘える時の合図で、それは僕が悩んだり落ち込んだりしている証拠。


「僕はみんなと一緒にいたいです」


「おう」


「前みたいに楽しくおしゃべりして、皆のことをもっと知りたいです。シーサイトの時みたいにお出かけもしたいです」


 ふわふわの頭を撫でれば、嬉しそうに目を細めた。


「でも、守られてばかりは嫌です。もっと魔術の練習をして、大切なものを守れるようになりたい」


「その理由は?」


「世界の明るさを知ったから。生きることが楽しいって思えるようになったから。もう昔の自分には戻りたくないんです」


 大きな手が頭に乗った。ノーマンさんは優しく笑った。


「今の言葉を、ちゃんと母親に伝えな。しっかり話し合った上で、また考えるといい」


「分かりました」


 ノーマンさんのおかげで、自分の状況を整理することができた。身動きが取れないほどに悩んでいたことが嘘のようだった。自分の考えをお母さんに伝える。心配なところもまだあるけど、それでも話し合う決意はできた。




「好きにしなさい!」


 お母さんが怒った。


「心配しているのに、どうして分かってくれないの?」


「でも、話を……」


「黙って! もう会わないって約束して!」


「…………」


 話を聞いてはくれなかった。僕の言葉はお母さんに拒否されて行く先を失った。


「約束できないの?」


「きゅう……」


 僕は返事ができなかった。もう会わないだなんて言えない。これからも会いたいから。だからそのことをお母さんに分かってほしいだけなのに、僕の言葉じゃ届かない。


「そっか。こんなお母さん嫌いだよね、……ごめんね」


「ちがっ……」


 どんな言葉も、もうお母さんには届かなかった。お母さんが嫌いなわけじゃない。ただ理解して貰いたかっただけで、衝突なんてしたくなかった。僕とお母さんの世界は重なってすらいなかったのだろうか。


 不安そうなスミが鼻を鳴らす。この子には僕の気持ちが伝わっているのだろう。僕は零れてしまいそうな涙をこらえて自分の部屋に戻った。


 お母さんに理解されないことが、誰よりも一番苦しかった。

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