第53話 見えない傷跡

 病院に着いた僕は、治療室の前の廊下でノーマンさんと並んで座っていた。ラヴィボンドさんとスミは治療室に入っている。アリーさんはあの場で起きたことを説明するため、少し前に風の賢者と一緒に病院を出ていった。


 僕は病院に着いてお医者さんにいくつか質問をされた後、誰か安心できる人のそばで休むことが大事だと言われた。呼吸は落ち着いて涙も出なくなったのに、どうしてか心が痛かった。


 目の前で大変なことが起こっていても、僕は何もできなかった。あの場所にいた僕以外はみんな、生きるために動いたというのに。僕が何もしなかった結果、目の前が赤く染まった光景を何度も思い出して、自分の無力さを呪うことしかできなかった。


「きゅー!」


 聞きなれた声が聞こえた。


「スミ!」


「ご家族の方ですね」


 スミは看護師さんの腕の中で元気そうに暴れていた。


「左足の骨が折れているので、ギプスで固定しています。足に無理な負担がかからない程度に過ごされてください。他に怪我は見られないので、今日は家に帰られて大丈夫ですよ」


「ありがとうございます」


 僕の膝の上に移動したスミはしきりに首を動かして僕を見つめてきた。そのいつもと変わらない様子に頭を撫でてあげると、スミも気持ちよさげに目を細める。


「スミも、ありがとう」


「きゅー」


 痛々しい足の怪我は、僕を守るためにできたもの。苦しそうな声さえも聞こえなくなってスミの状態を心配するべきだったのに、自分のことしか考えられなくなっていた僕は、本当にスミの家族だと名乗ってもいいのだろうか。スミは僕を守るために体を張ったというのに。


 うつらうつらとしていたスミは、いつの間にか眠りについていた。


「お前さんも、眠いのなら寝てていいんだぞ」


「いえ、眠くはないです……」


 ラヴィボンドさんはまだ出てこない。目の前が赤く染まった。あんなにも苦しそうな表情で、光が急速に失われていった。彼は相当酷い状態なのだろう。


 その光景を思い出せば思い出すほど、心はどんどん軋んでいった。その軋みはどこか懐かしいようで、また心の声が聞こえてしまいそうだった。


「無理はするなよ」


「はい」


 心の声が届かないように、ノーマンさんが耳を塞いでくれているような気がした。もう僕は昔の僕ではないのだから、自分を偽る必要なんてなければ死神だとさげすむ必要もない。心の声が聞こえることはなかったが、心はチクチクと痛みを訴えた。




 それから少しの間、僕たちが何もしゃべらずに座っていると、不意に目の前の扉が開いた。


「ちょうどよかった。ノーマン、君からも何か言ってくれませんか」


 目の前に現れた人物に、僕はしばらく動くことができなかった。


「ここはお前が働いている病院だったのか」


「そうですよ。彼が運ばれてきたときは私も驚きましたから」


 白衣を着たアスさんが、少し呆れた様子で立っていた。


「それでラヴィボンドさんのことですが、腕の再生を拒否するんです」


「そうか。それでお前は俺にどうしろと?」


「……そうでしたね。あなたも私の提案を拒否したんでしたね」


 ノーマンさんの返答に、アスさんの表情は暗くなった。


「相棒を殺すことはできない」


「可能性の一つです。絶対にそうなるとは言っていないでしょう」


「少しでもその危険があるのなら、俺はこのまま変わる気はない」


「分かってますよ」


 いつもの馴れ馴れしい様子はなく、二人の間には剣呑な空気が流れた。どうやらその話はノーマンさんと彼の相棒についてのようで、僕がこの場で聞いていい話ではなさそうだった。


「それで、ラヴィの方はどうなんだ?」


「ああ、彼の手当ては無事に終わりましたよ。今後腕を再生させることも可能ですが、その場合は相当な痛みを覚悟してもらう必要がありますがね。まあ、彼もあなたに似ているところがありますから、意思を変えることはないでしょう」


 さっきアスさんが出てきた扉から、一台のストレッチャーが出てきた。


「アスさん、ありがとうございました」


 ストレッチャーに寝転んだ状態のラヴィボンドさんの顔は青白く、いくつかの点滴を携えた姿は弱々しかった。


「もう起きたのかい? さすがに早すぎないか?」


「そうなのでしょうか……」


 その眠たそうな瞳が僕を捉えた。


「サイラス……君? 大丈夫かい? 怪我はないかい?」


「はい。大丈夫です」


「無事で良かった」


 ラヴィボンドさんはにこりと笑った。体がボロボロになって苦しいだろうに、無理して明るく振舞っているように感じた。


「疲れてるだろ。もう休め」


「……そうさせていただきます」


 ノーマンさんの一言で、彼は看護師さんたちに連れられていった。いつもの様子とはかけ離れた光の少ない様子が、まさに彼の残りの命を示しているかのようで、その傷ついた姿に心が重く押し潰されるようだった。


「あいつにも、怪我がないのと無事なのは別だと分かればいいんだがな」


 大きな手が頭を撫でる。


「無理はするなよ。きつくなったら泣き喚け。お前さんは表に出すのが苦手なようだからな」


 温かい。ラヴィボンドさんと同じ光がそこにはあった。だからこそ、失われた輝きに涙が溢れた。



「サイラス?」


「……お母さん?」


 ひとしきり涙を流した後、お母さんが迎えに来てくれた。


「大丈夫? 怪我はない? 何があったの?」


 お母さんの言葉に、僕はただ黙っていることしかできなかった。


「サイラス君に怪我はないです。ただ目の前で他の人が怪我をしてしまって、だいぶ疲れているはずです。スミは足の骨が折れているとのことです」


「ありがとうございます。ありがとうございます」


 僕の代わりに説明をしてくれたノーマンさんに、お母さんは何度も頭を下げた。


「いえ、私は何も。今日はもう休まれてください」


「ありがとうございます。また日を改めてご挨拶をさせて下さい。申し訳ありませんが、今日はこれで失礼いたします」


 スミはお母さんに抱えられ、僕は右手を引かれて病院を後にした。今はもう、何も考えたくなかった。

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