第39話 古株の導き

 僕の足はカフェに向かって進んでいた。


 今日は授業を受けた後、いつものように秘密基地で過ごす予定だった。珍しく午後に一つしか授業がなかったのに、その授業さえ休みになるという連絡が届いたのはお昼になってすぐのこと。他の学生は急に沸いた休みに我先にと遊びに出たが、今まででも十分すぎる時間を過ごしていた僕には持て余すような知らせだった。


 最初はエトワールの魔術を練習する時間を増やそうとも考えた。少しでも早くアリーさんに見せられるようなものを作るために、もっともっと練習を重ねるべきなのは分かっていたからだ。ただいくら練習を重ねても変わらない結果と、あの何もせずに過ごさなければならない時間の苦しさに疲れてしまっていた僕は、どうしても秘密基地へ行くことができなかった。



 カフェの扉を開ければ、いつものようにマスターさんが迎え入れてくれるはず。僕のそんな思考を裏切って、扉のベルは虚しく鳴った。


 カフェにマスターさんの姿は無かった。嬉しそうな笑顔も声も、今日は聞くことができなかった。もしかして今日のこの時間は来てはいけなかったのかと、そのまま扉を閉めようとすると声をかけられた。


 上手く聞き取ることはできなかったが、先ほどまで誰もいなかったカウンターに初めて見かけるお客さんが座っていた。フードを被っていてその顔は見えない。僕に一瞥することもなく、ただ目の前の食事を続けるだけ。ここを立ち去っても行く当てはないから、僕は椅子を一つ開けてカウンターに座った。


「私はまだまだ満足できない」


 それは僕の意識の中で響いた、アリーさんの声だった。先ほどの声とは違う。練習しなければならないのを分かっているからこそ聞こえてくるのだろう。この幻聴から逃れることができる日など、来ることがあるだろうか。


「君なら大丈夫」


 カランと音がしたと思えば、カウンターの上に結晶が置かれていた。真っ赤に輝く結晶。それは初めてアリーさんに出会ったときに見せてくれたものだった。まるで僕に魔術をするよう促すように、声は届いて結晶が現れた。一回くらい……。毎日やっていることに変わりはないのだから。


 僕は鞄の中から彼女に貰った袋を出した。そして中から道具を取り出して並べる。本と瓶のたった二つ。世界中の人々に称賛されるエトワールは、これだけでできる。


 一枚の紙を広げて粉を積もらせ、魔術式に手を添えた。目を閉じて広がる闇の中、両手の内に浮かぶ一粒の種だけに集中する。これまで何度も想像したこと。何度繰り返してもできなかったこと。このまま想像したところで、できるものは割れた結晶のみ。


 いざ魔力を流そうとしたとき、何かが僕の手を包み込んだ。冷たくて節くれ立った、ゴムのような質感の何か。真後ろに感じるその存在が、耳元で囁いた。


 扉を閉めようとしたときと同じ。確実に届いている声とは裏腹に、聞き取れないその言葉。目を開こうとも、確認しようとも思わなかった。確認しなくても、その存在が誰なのかはっきりと分かっていた。


 こちらを一度も見ることが無かった。ただずっと食事を続けていたお客さん。


「君なら大丈夫」


 また聞こえたアリーさんの声に、僕はゆっくり魔力を流した。体の中心で強く光る、膨大な魔力の表面で漂う細い糸。ゆっくりと手を伸ばすように進む糸に、温かいものが絡みつく。重ねられた手から流れてくるそれは、道を指し示すように僕の魔力を導いた。


 魔力は種の周りでくるくると回り、そこでいくつもの花を咲かせた。輝く光はウィラレントでの花火によく似て、真っ暗な世界を照らし出した。何もない、暗くて冷たい世界だったはずなのに、そこはすでに温かさに包まれていた。


 その光景に見惚れて、気づいた時には重ねられていた手の感覚も消えていた。そっと瞼を上げれば、魔術式の中心に立派な結晶が花開く。オレンジ色の結晶の支柱にちりばめられた花は、光を求めて花弁を開き、その内へと輝きを湛えた。そこには一つの生命の存在があった。


 魔術を手伝ってくれたお客さんは、僕が目を閉じる前と変わらず座っていた。ただ食事を終えて、動くことなく座っていた。


「ありがとうございます」


 お礼の言葉にも反応する様子はなく、僕たちの間に沈黙が流れた。目の前の新しい結晶に触れた指から、その見た目にそぐわない冷たさが伝わる。温かな色で光を秘めたそれは、れっきとした結晶であった。


「…………」


 じっと結晶の存在を確かめていた僕に、そのお客さんは何か話し始めた。奇妙な音で紡がれる、言葉とならないその声は、僕の知らない遠い世界で使われている言語だろうか。何度も聞こえては理解できないでいる僕に諦めてしまったのか、彼は何も言わなくなった。



「お待たせー。……あら、ボクも来てたの? 」


 沈黙を破るように、カウンターの奥の扉からマスターさんが現れた。両手に大量の食材を抱えて、どうやら買い出しに行っていたらしい。


「これ! どうしたの!」


 マスターさんの視線は、僕が触れている結晶に注がれていた。


「本当に見事だね……。一人で作ったの?」


「いえ……」


 こんなに素晴らしいものを、一人でできるはずがない。子どものように目を輝かせるマスターさんに、僕は言葉を濁した。


「アルジーが手伝ってくれたんだね。*〇□$#*▽×%」


 最後によく聞き取れない言葉を並べたマスターさんに、アルジーと呼ばれたお客さんが手を振った。

「ボクは会うのが初めてだったよね。アルジー=レコード。彼はここの一番の古株だよ」


「レコードさん……」


「言葉が通じなくて困ったでしょう? 私が通訳するから、何かあったら言ってね」


 カラン


「おや、いらっしゃい」


「今日は先客が多いみたいですね」


 カフェに現れたのはラヴィボンドさんだった。


「お久しぶりです」


「久しぶり。……今日は出直したほうが良かったですか?」


「えっ?」


 ラヴィボンドさんは扉の前に立ったまま、申し訳なさそうに尋ねた。その言葉はマスターさんとレコードさんに向けられていたようで、二人の方を振り返ればさっきまでの和やかな雰囲気がかげっていた


 張り詰めるような空気を纏うレコードさんをマスターさんがなだめようとするが、それを無視してレコードさんは立ち上がった。結局引き留めることができず、レコードさんが出て行ったカフェには気まずい空気が漂った。


「すみません。私のせいですよね……」


「いや、こればかりは仕方がないから気にするんじゃないよ」


 僕にはその言葉の意味が分からなかった。レコードさんとラヴィボンドさんの間に何があるというのだろうか。僕の中で誰にでも優しく手を差し伸べてくれるラヴィボンドさんが何かをしたというのだろうか。


「とりあえず……コーヒーをお願いできるかな」


「もちろん。ボクにも、待たせちゃったお詫びに何か作るね」


「えっ、あっ、ありがとうございます」


 できる限り普段と変わらないように振舞ってはいるものの、その表情はどこか暗い。引きずられるような空気に、僕はたまらず質問した。


「どうして、レコードさんとラヴィボンドさんは仲が悪いんですか?」


「それが思い当たることが無くてね。会うたびにこんな感じさ」


「えっ?」


 ラヴィボンドさんの言葉に、少し離れていたマスターさんが反応した。その驚いた様子は、さもラヴィボンドさんが理由を知っていることが当たり前であるかのような反応で、僕たちはしばらく見つめ合った。


「マスター?」


「言ってなかったっけ?」


「何も聞いていないのですが……」


「そっか! じゃあ今言うね!」


 申し訳なさそうな様子から一転、マスターさんがニコリと笑った。それは理由を伝えることはそれほど重要でないとごまかしているようで、彼女のその自由気ままな性格には悪い気はしなかった。


「これはラヴィの魔力が特殊であることと関係するんだけど……」


「魔力が……、特殊?」


「あー……」


 それは僕が聞いたことのない、ラヴィボンドさんの話だった。人の秘密を話す気など更々ないマスターさんは元の作業に戻り、ラヴィボンドさんは口を閉ざして考えを巡らせているらしい。これは僕には話せないことなのかもしれない。僕が聞いてはいけないことなのかもしれない。


 残念だとも悲しいとも少し違う、もやもやとした感情が心を染める。そのよく分からない何かを振り払うべきなのかさえも分からなくて、僕はじっと黙っていた。


「これは私の昔の話になるんだけど……」


 まだ何かを悩むように、ラヴィボンドさんは話し始めた。

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