第38話 変わらない場所と変わった場所

 週末を終えて、僕はいつも通りの日常に戻った。


 嫌がらせが無くなることはないが、マスターさんの魔術のおかげで普通の人のように過ごせる。毎日授業を受けて、他人からの嫌味や自分の無力さを痛感しては、一人で秘密基地へと足を運んだ。


 不思議なことに秘密基地は行くたびにその様相を変える。物の置いてある場所が変わっていたり無くなっていたり、新しいものが増えていたり。毎日違うから、僕は毎日同じ作業を行う。


 最初は大きなテーブルのところに行って、机の上を少し整理する。ある程度のスペースが確保できさえすれば問題ないから、足の踏み場のないこの部屋をより歩きづらくすることもあった。それを終えたら椅子を準備して、机の上にアリーさんからもらった道具を並べる。


 アリソン工房の経営者であり技師でもあるアリーさんは忙しくて、僕のためだけに時間を割いてもらうわけにはいかない。そのために受け取ったのは、エトワールを作るために必要な道具一式。魔術式が記されたページが永遠と続く本に白い粉が入った少し大きめの瓶、そしてその二つが入っていた、転移の魔術が付与された小さな袋。この袋はアリーさんの工房の袋と繋がっていて、僕からもアリーさんからも干渉できるようになっている。


「材料が少なくなっていたら追加しておくね。失敗してもいいから、できた結晶は袋の中に入れてほしいかな。助言ができるし、再利用もできるから」


 この袋があれば、遠く離れていてもアリーさんに見てもらえる。それもアリーさんの負担にならない、彼女の気が向いた時に。


 僕はゆっくりと深呼吸した。魔術式の中心に白い粉を積もらせて両手を添える。これからの手順を簡単に頭の中で復習して、少しだけ笑って気持ちを落ち着ける。アリーさんに完璧なエトワールを見てもらうため。それはこれまでの行為とは違って、願掛けに近いものだった。


 目を瞑って考える。水が流れて満ちていく。それは種に流れ込み、青い葉をひろげて大きくなる。上へと伸びた植物の成長は、ピキッという小さな音で止まった。


 これまでコツコツと積み重ねてきた練習は、未だに進歩がない。目を開けてその失敗作を確認すると、僕はそれを袋の中に詰め込んだ。途中で割れた結晶からは中の液体が溢れ、机へ触れる前に砂のように固まった。その小さな結晶の粒は流れるような美しさだったが、僕が必要としているものではない。


 まっさらな状態に戻った机を前に、僕は大きく息をついた。焦る必要はない。植物の成長だけを考えれば、全て上手くいくはずだ。そう考えれば考えるほどに、失敗した結晶が脳裏にちらつき、そのイメージに引きずられて結晶が生まれる。


 机についた左腕に頭を預けて、もう一度大きく息を吐いた。失敗作の繰り返し。また新しい失敗作も、普通でない僕の魔力が体の奥に引きこもったままでは作ることができない。粉の入った瓶をコツコツと揺らし、踵で椅子をコンコン叩く。


 持て余してしまったこの時間で、考えるのはいつも同じこと。今の僕は、昔の僕から本当に変わったのか。


 ラヴィボンドさんと出会って世界が変わった。僕は一歩前に踏み出した。昔の自分のずっと前に立っている気分だった。これらは全て僕が見た幻想だったのではないかと。


 僕は昔から何も成長してはいなかった。ごく一部の優しい人たち以外からはその存在自体を疎まれ、膨大な魔力にも嫌われて使える魔術は一つもない。考え方はほんのちょっとだけ変わったのかもしれないけれど、それは僕の半歩にもならないほどなのではないだろうか。結局僕は、真っ暗な闇の中で一人、ただ立っているだけなのではないだろうか。


『ここは酸素が薄いから』


 久しぶりに聞く声の主は、そこに笑って立っていた。


『どうしてこんなにも苦しくなったのだろうね』


 まるで自分が水の中にいるように、その声がまとわりつく。僕が動こうとすれば動かないように押さえつけられ、息を吸おうとすればその空気を奪おうと肺の中まで侵入してくる。泣くことも叫ぶこともできない。何も変わらないと思っていた場所が、何よりも変わってしまっていた。


「アリーさんに……」


 完璧なエトワールを見てもらうため。彼女の笑顔を思い出すたびに、水の勢いは強く重くなって、その世界で立っている感覚さえも失われていった。


 僕しかいない部屋の中で、不規則に届く二つの音。それは僕を闇と現実の間へ落とし、静かに時間を刻んでいった。

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