第35話 特別な場所へご招待

 土曜日の早朝、僕は制服を持って学院を訪れていた。


「週末は時間ある?」


 その言葉はマスターさんからのお誘いだった。毎朝カフェで彼女に会って、魔術をかけてもらう必要がなくなるからと。


 カフェへの扉を繋げるために、僕は秘密基地へ向かっていた。休日である今日、初等部の廊下は無人だ。静まり返った廊下を一人で歩く。この孤独な安心感は、微かな声の反響とともに消え去った。


 忘れもしない。あの冷たかった記憶。耳に残った声の響きに、反射的に体を縮めた。


 笑い声が消える。足音を忍ばせて、彼らがゆっくりと近づいてくる。痙攣した肺が、酸素を取りこぼす。


 来る――。


 静かな廊下で孤独な僕は、それを防ぐ術を持ってはいない。


 慌てた声が聞こえた。水が弾けた音が届いた。僕には何も変化がない。


「水遊びかな? 私も混ぜてよ」


 懐かしい声。振り返った先に、全身に水を浴びた学生たちが立っていた。


「このままじゃ風邪ひいちゃうね」


 彼らの後ろから顔を出したのは、悪戯な笑みを浮かべた女の人。彼女が挙げた右手に倣って、赤い光の輪が現れる。学生たちの足元に広がるそれに、彼女を知らない学生たちは我先にと逃げ出した。


 足元が覚束ず、ふらりくらりと駆ける様は生まれたての子鹿のよう。そこに先ほどまでの威勢など、かけらも見つけることができなかった。


「せっかく乾かしてあげようと思ったのに」


 残念そうなフリをして、彼女はゆっくりと近づいてきた。その口の端に残った笑みを隠すつもりは無いらしい。ホッと口から漏れる吐息に、自然と肩の力が抜ける。


「アリーさん……。ありがとうございます」


「いえ。どういたしまして」


 そう言って頭に乗せられた手は、ラヴィボンドとはまた違う温かさを持っていた。彼女もマスターさんに似て、つけ入る隙は逃がさないという様子で悪戯をする。それはもう十二分に人生を楽しんでいますと言わんばかりで、裏側で見せる優しそうな笑顔に、彼女の芯の強さが幸福という名で支えられている事実を知らせた。


「それで、アリーさんはどうしてこんな場所にいるんですか?」


「そうだった! 今日は君を、私の工房に招待しに来たんだ!」


「招待……?」


「そう! マスターさんが来るって教えてくれたから迎えに来たの」


 彼女は顔をより一層ほころばせて、頭に乗せられた手がポンポンと二回跳ねた。


「それじゃあ、行こう!」


 ぎゅっと握られた左手を引かれて、僕たちはカフェへと向かった。浮ついた足取りは歩幅を広げて、跳ねるような感覚は鼓動と共鳴する。

 

「いらっしゃい。今日は一段と楽しそうだね」


「そりゃあ大切なお客様だからね。楽しみで仕方がないよ!」


 マスターさんはいつも通り、カウンターの内側でにっこり笑って迎えてくれた。


「呼ばない限りここには来ないくせに、ボクのことになると喜んで来るのね」


「それは……私も忙しいから。でも楽しみなんだから仕方なくない?」


 口をツンと尖らせたマスターさんにアリーさんは言葉を詰まらせたが、その感情の高ぶりが落ち着く様子はなかった。


「まあ、そんなアリーは置いといて。制服は持ってきてくれたかな?」


「っはい」


 僕は鞄から制服を取り出して、マスターさんへと手渡した。その間放置されたアリーさんは、隣で項垂れて小さくうめき声をあげた。


「これは夕方返すから、また取りに来てね」


「ありがとうございます」


 僕のここでの用事は今の所終わった。その言葉を合図にするように、顔を上げたアリーさんがジッとマスターさんの顔を見つめる。


「……私も忙しいんですよ」


「知ってるよ」


「お世話になったから恩返しをしたいとも思ってます」


「それはありがたいね」


「……ではどうすればいいんですか?」


 諦めたように、アリーさんは言葉を吐いた。


「分からない?」


「分かりません」


 二人の間にわずかな沈黙が流れ、マスターさんは口を開いた。


「研究をしていた時、アリーはよくご飯を抜いていたよね。例の件の後は体調を崩すことも多くなってたし」


「…………」


「私も心配しているんだよ」


「…………」


 マスターさんの言葉を聞いても、アリーさんは黙ったままだった。


「わざわざご飯を食べる必要はないから、たまには顔を見せに来てちょうだい」


 その言葉はアリーさんの口から言葉を奪う。恩返しをしたいという彼女の行動は、顔を見せるだけのちっぽけな行為に負けた。そのちっぽけな行為が持つ価値の大きさは、マスターさんの言葉に全て乗せられていた。


「…分かりました」


 伏し目がちの彼女が視線を上げることは無かった。


「いってらっしゃい」


「はい」


 アリーさんはそそくさと扉へ向かった。その背中には、来るときには無かった何かが背負われているようだった。


「いってきます」


 僕は彼女の後を追った。カウンターの中で手を振るマスターさんの笑顔にも、その何かが隠れているようだった。

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