第36話 収められる形

 アリーさんの工房へは、初等部からいくつもの扉をくぐり、廊下を進んだ先にあった。大きなテーブルに見慣れない道具、隅にいくつもの木箱が重ねられた部屋は広く、ラヴィボンドさんの研究室の三倍はあるのではないだろうか。


「アリソン工房へようこそ!」


 手を大きく広げてこちらを向いたアリーさんは、カフェでの憑き物を表面から見事に隠す。その弾ける笑顔に、僕の鼓動は早駆けた。


「好きに見回ってて。手は触れないようにね」


 その言葉を残して、アリーさんは階段を上っていった。


 中央のテーブルの上。部屋を見渡した僕の目は、モコモコとした泡のように連なった透明な球体の器具に惹きつけられた。その圧倒される大きさと存在感は、この部屋の中で神秘的な空気を纏っていた。


 僕はテーブルのそばまで近寄って、透明な壁の向こうを眺めた。球体の所々に溜まる粉から考えれば、この器具はエトワールの材料を作るためのものなのだろう。器具を隅々まで調べ尽くすように、僕はぐるりとテーブルを回り込んだ。ちょうど反対側まで歩いた時、僕の視界をちらりと遮るように光が射した。


 この部屋にある、もう一つの扉。年季を感じる扉の上部に描かれた模様の、その隙間を埋めるカラフルなガラスに反射した光が、ちょうど僕の瞳に届いていた。その上品で華やかな造りが、この部屋の神秘的な空気をより高める。


 僕は扉へと近づいて手を伸ばした。すべすべとした木は、光の当たり方によっては輝いて見える。ガラスは一段と光を反射して、この先の部屋の特別さをより一層引き出した。もしあのガラスの向こうを覗けば、その特別な部屋を見ることができるだろうか。


 踵を上げて手を伸ばす。ガラスから見通すには、もう少し高さが足りない。跳んでみたら見えるだろうか。手を伸ばしたまま膝を曲げ、勢いをつけて跳び上がる。ガラスに光が反射して、その向こうを見ることは出来なかった。


 床に足をつけた僕の耳に届いたのは、トントンと階段を降りる足音だった。反射的に背中を逸らした僕は、想像以上に近い扉にバランスを崩した。扉へと目一杯手を伸ばして、一歩二歩と後ずさる。


「おまたせ」


「……いえ」


 よろよろと動いた僕を、アリーさんは不思議に思ったのではないだろうか。トレーを手に持ち、小首を傾げた彼女はそのまま壁際の机へと向かった。


 その様子に少し戸惑いが残る中、僕は彼女の元へと向かった。そこで彼女は可愛らしいティーセットを手に微笑んでいた。白い花と青々しい葉っぱの中で、柔らかな黄色のレモンが実る。お揃いのカップに注がれた紅茶にはレモンが浮かび、フルーティな香りが鼻をくすぐった。


「私がいつも飲んでいるものだけど、口に合うかな?」


 手渡されたカップを受け取れば、手の中にその温かさが伝わる。カップの淵に口を付ければ、優しい味わいの中の小さな酸味、華やかな香りが僕の感覚を独り占めする。


「おいしいです」


「それは良かった」


 彼女も紅茶に口を付け、顔をほころばせた。


「それで……、もしかしてお店の方が気になったのかな?」


「えっ……?」


 アリーさんの視線は、先ほどまで僕が手を伸ばしていた扉へと注がれていた。やはりあのみっともない行動は彼女に見られていたようだ。


「そうだね。今日はお店もお休みしているし、見てみようか。最終的な形を見て勉強しておくことも大事だから」


 アリーさんはカップを置いて立ち上がった。あの扉の先がお店につながっていることなど知らずに、ただ扉の美しさに惹かれていただけだなんて、今更口に出すことなどできない。彼女は扉のノブに手をかけ、僕をちょいちょいと手招きする。僕がその扉を目の前にすると、彼女は一呼吸おいて扉を開いた。


「いらっしゃいませ。こちらがアリソン工房で取り扱っております、エトワールのアクセサリーになります」


 壁に沿って並べられたガラスケースとそれを照らす強い光。その光に目が眩むことのないように、また主役がエトワールであることを見せつけるように、極限まで絞られた部屋の明かりはぽつぽつと足元で輝いていた。


「ここに並ぶのは私が生み出したエトワール、私の子どもたちです」


 エトワールのために用意され、調整されたお店。ガラスケースを覗き込むアリーさんの横顔は、自らの子どもに向ける愛おしさがにじみ出ていた。子どもたちの晴れ舞台。彼女の愛情が詰まった部屋は、そのまま彼女の夢を映し出しているようだった。


 僕はこの幸せな夢に招かれたお客さん。彼女の隣にそっと立ち、その視線の先に目を向けた。ガラスケースの中に薄紫色の首飾りが寝転ぶ。舞台の照明のすべてを支配し、自らの輝きをもってそのエトワールは注目を集めた。


「この子は結晶が分厚くて液体が少ないの。だから少し複雑な模様のドレスが似合うと思ってね」


 真っ白の手袋をつけ、包み込むようにして取り上げる。目の前で放たれた輝きに思い出されたのはラヴィボンドさんと見た景色。淡い光でふわりと揺れる、花で満たされた紫色の部屋。


 六つの面を持つ柱状の結晶は、飾り彫りの施された面とそうでない面が交互に隣り合って緩やかに捻じれた。隙間ない飾りに藤が刻まれ、その花の先にぽつぽつと金色のインクが落とされていた。


 もしこれがただの結晶であったならば、地味な薄紫色の石にしか見えないだろう。しかしこれはただの結晶ではなくエトワールだ。藤の花が光を惑わせ、その表情を気まぐれに変化させる。その内に籠る液体が光を何倍にも増幅させれば、この世に唯一の輝きを放つことになる。


 エトワールが万人の心を掴んで離さないのは、その緻密な技術でさえも脇役にしかなりえないほどの異様な存在感だった。


「綺麗ですね」


 僕の口から出た言葉はたったの一言。頭の中で単語の嵐が吹き荒れても、そこから一つの文章を作り上げることはできなかった。


「ありがとう」


 本当はもっと言いたいことがいっぱいある。感じたことはこんな単純な言葉では片づけられない。それなのに言葉が出てこない。


「え……、あっ……その……」


 アリーさんは頬をピンクに染めて、細められた瞼の隙間で瞳をキラキラと輝かせた。僕の思いよりもずっと少ない、六文字の言葉で彼女は喜んだ。伝えなければならないこと、伝えたいことを言葉にするのは、こんなにも難しいことだったのだろうか。


「もっと……、伝えたいことはあるんです……」


「表現しちゃうとね、その言葉に囚われるようになるんだ。何か伝えたいことがあっても、結局は当てはめられた言葉の型でしか伝えることができない。だから人は多くの言葉や表現を知ろうとするし、それを使って伝えようとする」


 一度視線を落とした僕は、また顔を上げてアリーさんを見つめた。彼女の言葉の通り、今の僕が伝えたいことに見合うほど、僕の言葉の型は多くなかった。たとえもっと多く持っていたとしても、足りることは無いのだろう。


「さっきの言葉だけでも、私には十分伝わったよ。言葉以外でも伝える方法はいくらでもあるから」


 彼女の嬉しそうな表情を見れば、それが確かなのはよく分かる。それでも僕の思いを伝えたいと思うのは、わがままになるのだろうか。


「私の自慢の子を見せてあげよう」


 彼女は僕の頭を無造作にかき混ぜて、通ってきた扉の方向へと歩いた。カウンターのあるその角は小さなガラスケースになっていて、一粒の結晶が光に囲まれていた。薄い灰色の小さな結晶。そっと取り出したアリーさんの手の中で、それは不思議な輝きを誇っていた。


 その薄い色は結晶の先の景色までも映し出す。その景色の中では、室内では降るはずの無い細かな雪が降っていた。


「珍しいでしょ? 偶然できたものだから、作るときの条件とかは分からないんだけど」


「この結晶はそのままの状態で売っているんですか?」


「いや。まだお披露目しているだけだよ」


 アリーさんがにこりと微笑んだ。


「この子に似合うドレスを仕立ててあげたいんだけどね。どんなドレスも、この子が元々持っている輝きを邪魔してしまいそうで……。まだまだ決められそうにないんだ」


 困ったと口では言いながらも、何だかんだ楽しそうに笑う。


「もし似合いそうなドレスを見つけたら、その時は教えてくれる?」


「僕の意見でよければ」


 元の場所へと送り出す彼女の表情は、優しい母親の表情をしていた。

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