第34話 対応から得られた変化

 浮足立った歩みは、これまでとは違う特別感から来るものだろうか。今日という一日は、今までとは全く違う一日になる。それが一体どういうものなのか、不安以上の期待がそこに存在した。


 バタバタと廊下を駆け抜ける音。楽しげに届く笑い声と、僕の心臓を撫でるかのように囁かれる陰口。まだ学生の多くがたむろしている初等部の廊下を、僕はゆっくりと歩いた。


 それまでの軽い足取りはどこかへ消えた。一歩一歩踏みしめるその歩みに、狂ったように急かす呼吸をたしなめる。昨日までと何も変わらないその空気の中、複数の足音が耳に付いた。僕のいくらか後方から聞こえるそのリズム。相槌を打つかのような規則正しさは次の瞬間には崩れ去り、気の向くままに暴れまわった。


 急速に近づく不協和音。それは簡単に僕の心を軋ませる。筋肉が収縮し体が硬直したまま動かない。右の踵を上げたまま、膝が小刻みに震えだす。お腹を守るように腰が曲がり、それに反発するように背中を伸ばす。


 僕の背中を何かが撫でた。通り過ぎた音が三、四歩先で止まる。幾重にも重なっていた音が、僕を囲むようにして静かになった。


 今の僕はもう怯える必要なんてない。耐えて我慢する必要なんてない。ただ堂々と、一人の学生としてここに立つだけ。腰を伸ばし、両足をしっかりと地面につける。深く息を吸って長く吐く。まっすぐ前を見つめれば、そこに佇むのは怪訝な表情の学生たちだった。


「死神が……」


 後ろから近づく安定した足音。獲物が逃げないことを確信し、傲慢にもその立場を誇示するように刻まれたリズム。凍てつくような視線は今、僕の背中へと注がれているのだろう。足音が消え、廊下が静寂に包まれたとき、その場の誰もが嘲るように笑っていた。


 背中に手が触れる。それはしばらく動くことなく、そっと添えられたままだった。


「何でだよ……」


 僕を見つめていた嫌な笑みは、これまで以上に醜く歪んだ。そこから受け取れるのは嫌悪に困惑、そしてこれまで以上の苛立ちだった。


 触れられた手が離れ、また一瞬だけ背中に触れるとその学生は僕の横を通り過ぎた。


「死神のくせに調子に乗んな」


 憎しみの込められた鋭い視線と、吐き捨てるように紡がれた言葉。心にチクチクと刺さるそれに、僕の表情は変わらなかった。


 

 教卓にほど近い席。言語の授業は一本調子で華やかさがない分、教室はいつも静かだ。あの後も何度か嫌がらせを受けたが、それは授業中だからといって無くなるわけではない。

 

 バチン

 

 授業も中盤に入り、誰もがその集中力を切らしていた頃だった。


 電気が爆ぜるような音が近くで鳴った。そして何列か後ろの席からは苦しげなうめき声が聞こえてくる。ざわざわと騒ぎ始めた学生たちは、先生が醸し出す張り詰めた空気に口を閉ざした。


「授業中の魔術の使用は控えるように」


 そう告げる先生のしけた視線は、僕と体調の悪そうな学生に向けられていた。今の状況を理解できるのは僕だけだろう。


 僕には特にこれといった異常はない。しかしさっきの音は僕の近くで鳴り、一人の学生の体調が悪くなった。単純に考えれば、学生のかけた魔術が反転して、本人にその影響が出たというところだろう。それを先生が理解しているかは分からない。


 だがその目が訴えていることはよく分かる。ただただ迷惑だと、授業の邪魔をするなと。張り詰めた空気の中、冷ややかな視線は僕へと集まっていた。当たり前のごとく、全て僕が悪いのだと主張するように。


 僕が何をしたというのだろうか。こんな状況になった原因は僕ではなくて魔術をかけた学生だろう。それともこの視線を送る人たちは、僕が存在すること自体が問題だと伝えたいのだろうか。


 その考えが出た時点で、なぜか怒りも悔しさも消えた。僕が死神と呼ばれていて、あらゆる人がその存在を恨んでいる事実を、僕自身が認めて諦めてしまっているからだろう。本当は立ち向かうべきだと気づいていても、僕の意思で心の持ち方を変えることは難しいらしい。


 教室の空気は変わることなく、授業は再開した。先生が体調の悪そうな学生を気にかけることもなかった。



 

 最後の授業を終えて、僕はカフェで今日あったことを話した。嫌がらせが阻止される度にマスターさんは目を輝かせ、ちょうどカフェを訪れていたノーマンさんはため息をついた。


「ちゃんと効果があったみたいだね」


「はい。ありがとうございます」


 マスターさんがかけてくれた魔術のおかげで、今日は大きな問題もなく過ごすことができた。


「……いつもこうなのか?」


「えっ?」


「いつもこんな風に嫌がらせを受けてきたのか?」


「…………」


 ノーマンさんは静かに怒っていた。その怒りが僕に向けられたものではないことは分かったが、僕に関することであるのは確かだ。


「そう怒らないでよ」


「……すまない」


「すぐにできることには限界がある」


「分かってる」


 珍しく気まずそうな二人。その原因が自分であることに、ほんの少しだけ申し訳なくなる。


「お前さんは何も悪くない。悪くないからな」


 大きな手が、優しく僕の頭を撫でた。


「何もできなくて悪い……。でもため込むなよ。じゃんじゃん甘やかせてやるからな」


 どんなに嫌がらせから身を守ることができても、その存在は変わらない。嫌がらせをする人の表情や声、それが阻止されたときのドロドロとした感情は頭にこびりついたまま。それが辛くて苦しくて、どんなにもがこうとしてもその気力さえも着実に削ごうと襲ってくる。


 この沼は深く、逃げることなどできない。でもそこに、手を伸ばしてくれる人がいる。温かく力強い腕で、僕が引きずり込まれないように支えてくれる。


「ありがとうございます」


「おう。いくらでも頼ってくれよ!」


 この人たちがいてくれるから、まだ前を向いて生きていける。僕は力の抜けたように笑った。

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