第15話 馴染みある景色

 穴の先の光に目が慣れるまで、彼は隣でじっと待ってくれていた。


「ここを通ると、入り口は自動的に閉まる。一方通行だから、前の道に戻ることはできないよ」


 振り返ると壁が生き物のように動いた。いくつもの破片が組み合うように、空いていた穴を埋める。完全に戻った壁は、穴があったことなど感じさせないほど綺麗だった。


「ここでクイズをしよう。この廊下は、ある場所とよく似ています。それはどこでしょう?」


 光に慣れた目でもう一度廊下を見渡す。一メートル間隔で並ぶ扉。フローリングの床に薄い緑色の壁。天井を支える柱や梁には細かな装飾が施されている。明るい廊下には光が溢れ、見慣れた景色を思い出す。


「初等部ですか?」


「正解。では、この廊下が初等部の廊下と違うところはどこでしょう?」


 彼が本当に聞きたかった問題はこっちだろう。ここはどう見ても初等部の廊下と瓜二つだったから、最初の問題に答えられないというのはあり得ない。彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて、僕をじっと見つめた。


 先ほどよりもゆっくりと廊下を見渡す。壁、扉、天井、明かり、床。どれも違和感がない。この廊下のどこに、初等部との違いがあるのだろうか。


「さっきの突き当たりは……」


 唯一思いついたことは、この廊下が繋がっている空間だけ。初等部の廊下は研究部門の廊下に枝分かれしていくが、先ほどの場所は突き当たりになっていた。


 僕は彼の表情を伺ったが、彼はハッと驚いていた。どうやらその答えは想定外のものであったらしい。


「廊下の突き当たり以外で。もちろん反対側も」


 彼は苦笑いをしていた。


 僕はもう一度じっくりと見渡した。初等部の廊下は凝った造りをしているわけではない。だからこそ、違うところがあればすぐに分かりそうなものだ。キョロキョロと周りを確かめながら廊下を進む。どこにも違和感がないからこそ、その全てが怪しく思えてしまう。


「それは見て分かるものですか?」


「そうだね……。これは結構難しいから、サイラス君が挙げた答えの中に正解があれば伝えよう」


 彼は言葉を濁した。それは見ているだけでは答えが分からないと言っているようなものだった。見ても分からないものを探すほど難しいことはないだろう。僕は目についたものを一つずつ挙げていった。


「難しいからね。そろそろ答え合わせをしようか?」


 僕が挙げたものは全て間違いだった。挙げるものも無くなっていって、僕たちはずっと黙ったまま廊下を歩いていた。


 あと何歩か進めば廊下の反対側に着いてしまう。後ろを振り返っても、もう思いつくものは何もない。僕は男の人を見つめて、首を横に振った。降参だ。


「正解はね……」


 彼は扉に近づいて、その奥が見えるようにゆっくりと扉を開けた。


「ここに並ぶ扉は全て、ただの飾りでした」


 彼が開けた扉の奥には、ただの壁があるだけだった。男の人はその隣もまたその隣の扉も開けて見せたが、どれもその先に繋がった空間はなく壁で塞がれているだけだった。


「ここは学院の始まりの姿ではないかって言われているんだ。学院にこの廊下を繋いだのはいいけれど、その先の扉を繋げる必要がなくなったのかなってね」


 ここが、学院の最初の姿……。


「今となっては、ここに来た人たちを騙すためのじゃないかって言われているよ。他の扉も確認するかい?」


 僕は首を横に振った。彼にいくつか見せられて、これ以上確認する必要もないだろう。それよりもどうしてか、心にざわざわと違和感を感じるようになった。それは彼の少し残念そうな表情を見てしまったからだろうか。それとは何か違うような気がするが。


「ここは初等部の廊下によく似ている。でも、ここはその廊下とは違う。ではどこが違うのか。どうしたらそれが分かるのか」


 男の人は大きく手を広げて、その手でこの廊下を受け止めるようにくるくると回った。そしてスッと手を下ろすと、僕の方を向いてそっと告げた。


「知識を持つこと、事実を知ることだよ」


 彼の笑顔が怖かった。その口から紡がれる言葉が怖かった。その理由も分からないのに、ただただこの場から、彼から離れてしまいたかった。僕の直感がここにいてはいけないと警告する。なのにいつも心の奥にいる声は、ザーザーとざわめくばかりで何も言わない。


「知識は様々な視点を与えてくれる。事実は嘘を証明してくれる。物事を比較することができるから、それは私たちに本当か偽物かを教えてくれる」


 彼がゆっくりと近づく。その瞳に、一滴のインクが垂れる。


「何も知らなければ、本当も偽物も分からずにただ受け入れることしかできない。そういった人からすれば、それらは些細な違いでしかないのかもしれないけれどね」


 何も知らないこと、知らないでいることに慣れきってしまえば、本物も偽物も関係なかった。何も見ず、聞かず、全ての物事について感じることを諦めてしまった人間が生きているのは、ただ偽物の人生でしかなかった。


 それでいいと思っていた。それしか残されていないと思っていた。彼にはっきりと否定されたわけではない。彼もそれを否定するために、この話を聞かせているわけではない。それでも彼は真実を求めるだろうし、それが正しいと思っている。


 その事実だけで僕の心は軋み、ざわつきが一層酷くなった。


「それを研究することが、研究者の役割なんだけどね」


 僕は心のどこかで、彼に期待をしていたのだろうか。彼は絶対に僕を傷つけないと。


『死神』


 心のざわつきははっきりとした言葉となっていた。怒鳴り声、笑い声、囁き声、大人も子供もあらゆる声で僕を呼んでいた。


 本物の人生を歩むことが正しいことであることくらい、ずっと昔から分かっていた。偽物の人生を歩み続けても得がないことは、誰よりも僕が知っている。それなのに僕は変えられなかったのだ。知識を付けることも事実を知ることも、全てが痛くて苦しくて、そんな感情を繰り返したくなくて、僕は偽物のままでいた。それでも人生を歩んでいるのだから、どうか恨まないでほしい。


 心のざわつきが大きくなって、その声は狭い空間から溢れようとしていた。


『どうして?』


 誰かが声を放った。心の声がピタリと止んだ。


『どうしてそんなに苦しんでいるの?』


 それは僕がずっと偽物の人生を歩んできたから。それが間違ったことだから。


『どうしてそれが間違っているの?』


 人は本物の人生を生きなくちゃならないんだ。そうしなければ彼はきっと……。


『気にする必要なんてないよ。彼は僕のことを何も知らない。これが僕の人生なのだから』


 …………。


『笑ってさえいれば大丈夫だから』


 それはずっと同じ声だった。僕をいつも守ってくれる、僕にとってかけがえのない存在。


 一度気持ちを落ち着けてしまえば、後は何も聞こえなかった。


「さあ、この先にもまだまだ見せたい場所があるんだ」


 心の声と対をしている間、彼が何を言っていたのかは分からない。それでもこの後何を言えばいいかは分かる。


「行きましょう」


 いつもの笑顔を張り付けて、僕は彼の目を見つめた。今回は上手く笑えられた気がする。

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