第16話 ここではないどこか
廊下の突き当たりに、また少し変わった扉があった。こげ茶色の二枚の木の板には、全体に彫刻が施されている。その細かな飾りのあちこちにドレスを着た女性のような姿が見えた。
男の人が手をのばす。手の影が板の中心にある蕾に重なったとき、オレンジ色に輝く花が咲いた。その暖かな光は溝に沿って広がり、板の中の女性たちが動き始める。散らばった光を拾ってはドレスに飾り付け、彼女たちのドレスは次第に豪華になっていった。見事な輝きを纏ったドレス姿の女性たちは扉の端々へと優雅に踊り、板を囲む光となった。それを合図に扉がゆるりとスライドする。
その先に見えたのは狭い部屋。ただし、その部屋と僕たちとの間は格子で遮られていた。彼がそれに手をかけ横に動かすと、格子はパタパタと折り畳まれた。
「さあ、行こう」
何か物があるわけでも、飾りが付いているわけでもないシンプルな部屋。僕と男の人だけでは十分な広さではあったが、何かをするには狭すぎる気がする。僕が部屋に入ると、男の人は格子を元の状態に戻した。格子が完全に閉まると、扉も自動的に閉まり始めた。部屋が完全に閉じられる。狭い部屋に二人。彼は黙ったままで、僕も何も話さなかった。
沈黙を破ったのは、部屋の天井から聞こえたカチッという音。何の音かと見上げようとしたとき、床が揺れた。連続した音が響き始め、体が床へと引っ張られる。両足を踏ん張り堪えれば、その感覚はすぐに消え去った。彼は特に気にする様子もなく立っていた。
格子の向こう側、二枚の扉板があるはずの壁が下へと流れ続ける。それを見てようやく、ここが何の部屋なのか分かった。それと同時に、僕の不安も膨らんだ。僕の知っているものはもっと居心地のいいものだ。これほど揺れるということは、相当に古いものではないだろうのか。
そうしている間に壁の移動速度が遅くなってきた。もうそろそろ揺れるのだろうと身構えたのだが、どうやら甘かったようだ。
体がふわっと、地面から引き剥がされるような感覚。背中を虫が走るかのように、全身がぞわぞわと粟立つ。心臓が胸の中でバクバクと響く。その振動で背中を突き抜けてはいないと安心するほどに、それは恐ろしい時間だった。
「どうかな? 初めての機械のエレベーターは」
彼はただ優しそうに笑っているだけだったが、僕には
「大丈夫です」
全く大丈夫ではなかったが、どうにか呼吸を落ち着かせて答えた。
さわさわと風が吹いてくる。入ってきた方向とは反対の壁がゆるゆるとスライドした。彼は格子を畳んで部屋を出た。
扉の向こうには森が広がっていた。足元にはうねうねと木の根が重なり、枝から垂れる何本もの
「おいで」
その導きに僕も外へ足を踏み出す。
彼は森を進み始めた。こちらを振り返り伸ばされた手を、僕は取ることができない。僕の両手に握られた蔦は、この不安定な場所で僕を支える唯一のものだった。彼は手を繋ぐことを諦め、また前を向いて歩き始めた。少し歩いては振り返り、また少し歩いては振り返りと彼は何度も僕を確認しては進み始めた。僕もそれに遅れないようにと急いでいるはずなのに、その距離は離れる一方で彼を何度も待たせてしまった。
僕を待つ間、彼は顔色ひとつ変えない。全く怒る様子のないことが、またひどく申し訳なかった。焦っていたのだろう。必死に彼を追いかける僕の視界には、いつしか彼の姿が映らなくなっていった。
『どこへ行くの?』
ふっと顔を上げた僕に、現実が笑いかける。動くものは何もない。ギシギシと蔦が軋む音がこだまする。どこの方向も見ても、その景色に違いはない。
進むことができない。戻ることもできない。森の中にただ一人。
「どこ……」
自分が今どこにいるのかさっぱり分からなかった。蔦に囲われた僕は籠に囚われた鳥のようで、これから行く場所も進むべき方向も知らない。そのうち飛び方も忘れてしまうのではないだろうか。
「だれか……」
飛び方を忘れる前に、僕を籠の外へと導いてくれる人の姿を思い浮かべる。声が震えて、下手な呼吸音が届く。まだ大丈夫……。きっとまだ近くにいるはず……。
『名前で呼んであげてほしい』
心の中の僕の声は、あの時の女の人の言葉だった。呼吸がゆっくりと落ち着く。今の自分が置かれている状況を、冷静に見つめられるようになった。
だからこそ分からなかった。ただ名前を呼ぶだけなのに、躊躇している自分がいる。何かが邪魔をして、その名前を口にすることができなかった。
特別な意味があるわけではない。思い入れもなければ、今の状況の問題でもない。ただ本能的に、僕自身が拒否していた。
何もできずに時間だけが過ぎていく。僕はじっとうずくまった。何もできない。解決策も分からない。籠の外の世界へ手を伸ばすことに恐怖を感じていた。この新しい狭い世界に、慣れようとしていた。
ギー。
蔦が揺れる音だった。風ではない、何かが強く蔦を動かす音。それは段々と近づいてきたが、見える範囲に動くものはない。
ギギー。
怖い。何かがいる。籠の外を動く何かは、こちらへゆっくりと距離を詰めていた。
ガサッ。
悪寒が背中からせり上がる。
押し退けられる蔦の音。はっきりとしていく息遣い。心臓がきゅっと縮み上がる中息を止め、静かに汗が流れた。
「ああ、よかった。大丈夫かい?」
聞き慣れた声。思わずホッと息が漏れた。蔦の先から現れた見慣れた顔に、涙が溢れそうになる。
「先を急ぎすぎてしまったようだ。申し訳ない」
僕の頭へと伸ばされた手は大きくて温かかった。固まっていた体が溶けて、温かさが全身に広がる。ふっと体が持ち上げられ、彼の胸に包まれる。
申し訳なかった。迷惑をかけてしまった。
「しっかり掴まっていてね」
その温かさにホッとして、もう何も考えられなかった。泣きそうな姿を見られたくなくて、僕は体を彼に預けた。それを承諾と受け取ったのか、彼はまた蔦をかき分けて歩き始めた。
「ほら、もうすぐだ」
蔦の間から光が漏れている。かき分けたその先は眩しくて、日が燦々と注いでいた。
積み重なるように敷かれた木の根。蔦の茂みを中心にだんだんと高く広がっていく。遠くに見える天井も木で埋め尽くされ、根が途切れた淵の先との間は青い空で埋まっている。
彼は僕を抱えたまま、その青い空を目指して歩いた。足元で複雑に絡み合う根を気にも止めていない様子で、彼はひょいひょいと先へ進む。周りの景色を気に止める暇もなく、僕たちはこの空間の淵に立った。
最初に見えていた空は、その景色のほんの一部。空の色をずっと濃縮したような海が、遠くで緩やかな弧を描く。その手前から僕たちの足元まで、広大な森が広がっていた。
日はまだ高く、風の音が駆け抜ける。それは森の木々を揺らし、波立たせる。僕の耳には森のざわめきも、波のさざめきも届かない。この世界に生きる命の
「良い景色でしょう」
この孤独は嫌いじゃない。一人になることを許され、何者との関わりもない。
「素敵ですね」
彼は嬉しそうに笑った。その笑顔も、今の僕は何とも思わない。彼の腕から解放され、木の根に足をつけた僕は振り返った。
丸い空間の中心に、僕らが通って来た蔦の森がある。薄暗くて気味の悪かったそれは、外から見ると立派な一つの幹となった。この空間の天井を支える唯一のもの。いくつもの大きなキノコを付着させたその幹を除いて、僕たちの視界を遮るものはなかった。
その幹の向こう側、広がる景色に森も海も無く、ただ荒廃した土地があるだけ。
男の人が淵に沿って歩き出す。その後ろに続いて僕も歩く。森の木々は次第に低くなり、まばらになった。葉の数も減り、一枚一枚が大きくなる。鮮やかな色は深く暗く変色し、広大な森は大地へと緩やかに変化していった。
大地はひどい水不足のようで、土地はひび割れ、所々に岩の塔がそびえ立つ。多くの命が共存していた森と比べると、こちらは一つの巨大な存在が横たわっているかのようだった。
僕は黙っていた。彼も黙ったままだった。荒廃した大地を前に、僕たちは静かな時を過ごした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます