第14話 闇の道への誘い

 薄暗い階段を、男の人が下りていく。その足が次の段へと進むたび、足元を赤い光が照らした。彼の明るい髪はそのわずかな光を吸収し、僕の姿は闇に同化する。その赤く染まった髪を頼りに、僕は少し離れて階段を下った。


 完全な闇の中。階段を下りていくほどに、その暗さは増していった。それぞれの足元で灯る赤い光。近過ぎず遠過ぎず保った適度な距離を深い闇が埋める。


『住む世界が違う』


 こんな闇の中でも、彼の存在はしっかりとそこにある。それなのに僕の足元は今にも崩れてしまいそうだった。僕の存在は闇に呑まれて、その一部となってしまった僕を彼は見つけてくれるだろうか。


「大丈夫かい?」


 僕の心を読んだかのように、彼はタイミングよく声をかけた。赤い光の消えたその姿を、僕の瞳は捉えられなかった。


「大丈夫です」


 すぐ後ろで聞こえる声に安心したのか、彼の足元がまた光る。先ほどの距離を保ったまま、僕も後に続いて下った。ただ静かに足を進めてその光景に目が慣れ始めた頃、うっすらとではあるが、前を歩く男の人の輪郭が見えるような気がした。それも次第にくっきりと、闇の中から浮き出るように。


「もうすぐ着くよ」


 彼が僕を振り返った。その姿が見えたのは、僕の目が慣れたからではなかった。階段が終わるその先の出口から、赤い光が零れて見える。その光が僕の視界を助けていた。



 真っ暗な廊下に、赤いランプが点々と光る。磨き上げられた壁はその景色をぼんやりと映した。


「目がおかしくなりそう」


 階段から続く赤い光は、僕の瞳をチクチクと刺激する。


「もうおかしくなっているんじゃないかな」


 彼がにこりと笑った。赤く影を作るその表情はその言葉をより意味深くする。それがどういったものなのか、尋ねることはできなかった。


「この廊下は何らかの魔術が施されているみたいなんだ。黒い石の壁は継ぎ目もなければ、傷や歪みもないままに保たれている」


 彼は壁に手をついて廊下を進む。十分な赤い光で、その後ろ姿を見失うことことはなかったが、手が届かない距離まで離れることはできなかった。シンと静まり返ったこの場所には、生き物の気配が全く感じられない。その異様な不気味さは、この廊下を作った人物の考えを疑いたくなるほどだった。


「他にもすごいことがあるんだけど、それはまだ秘密だ」


 立ち止まった彼が、優しく壁を撫でる。その秘密というものは、知ってはいけないことではないのか。僕はあまりこの場所に留まりたくはなかった。たとえ彼が一緒にいても、僕だけが何かに襲われてしまうのではないかと、その不安は大きくなるばかり。再び歩き出した彼に、僕は少しほっとした。


 廊下に灯る赤く丸い形をしたランプは、天井や壁、床の上といたる所に置かれていた。それは飴玉から僕の腕がギリギリ回るくらいまで様々で、よくよく見ればたんぽぽのような綿毛で包まれている。僕たちがそのすぐ横を通れば、綿毛が流れる風に飲み込まれるように揺れる。


『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』


 その合言葉は、いつもとは少し違った意味で僕を助けてくれた。人形になってしまえば何かに怖がる必要はない。少し余裕が出てきた気がして、僕は壁に映った自分の姿を見ながら歩いた。


 視界の端に壁の中の男の人を映しながら、ほんの少しの距離を歩いただけだった。彼の姿を隠すように、大きな赤いランプが壁に映り込んだ。目の前に迫ったランプを避けようと前を向いた僕は、つい先ほど手にいれたばかりのその愚かな余裕を恨んだ。


 目の前にランプなど存在しない。僕が止まっていた分だけ前に進んだ、男の人の後ろ姿があるだけ。視界の端に反射する大きな赤い光は、ふよふよと僕の姿を通り抜けて後ろへと流れた。あんなに大きな光を見間違えるわけがない。


 僕はゆっくりと息を吐いて、そしてあることに気がついた。廊下に置かれた赤いランプは、どれも動く様子がない。動いているのは僕と先を歩く男の人だけ。それなのに壁に映る赤い光は、どれも意思を持っているかのように動き回った。


『もうおかしくなっているんじゃないかな』


 彼の言葉が頭の中で繰り返される。その言葉は、このことを指していたのだろうか。これが、この廊下での当たり前なのか。


 彼は何も気にせずに歩く。そして赤い光も、僕のことなど関係なしに動いている。この場所で本当に異質なのは僕なのではないだろうか。壁の中で動かずに固まっている僕の影。それが今すぐにでも離れてしまうのではないか。影にまでも取り残された僕は、この廊下で闇に溶けるのではないか。


 僕の影が笑っているような気がした。


 気のせいだ。唾を飲み込んで、僕は男の人を追いかけた。彼へと自分の手が伸びる。視界に映った白い指先に、正気に戻った僕は手を引っ込めた。


「ごめん。少し速かったかな?」


 廊下に響いた足音に、彼はゆっくりと振り返った。彼の瞳に、僕の伸ばした手は映っていなかっただろうか。間違えてしまった僕の動きに気づいただろうか。


「いえ……」


 彼は僕の返事を聞くと、また前を向いて歩き始める。その顔を見ることはできなかった。これ以上、この空間を把握したくはなかった。


『何も見えない、聞こえない』


 僕は合言葉を唱え続けた。男の人のすぐ後ろを歩いて、その足音に集中した。ただ僕がどう頑張っても、その視界には赤い光が紛れ込んだ。


 彼がふと立ち止まった。ぶつかりそうになりながら、僕もなんとか立ち止まる。


「よく見てて」


 彼はちらりと僕を見た。その左手が壁の中に吸い込まれる。スッと擦れるような音を立てて、壁が四角く凹んでいた。チッチッチッという時計の針が刻むような連続した音、カチッと何が噛み合った。


 彼の正面の壁にいくつもの四角い亀裂が入る。それを境界として壁がずれ込み、凹んだ壁には大きな穴が開いていた。それはちょうど大人の人が歩けるほどの大きさ。穴の奥からは久々に目にする明るい光が流れ込んだ。


 彼は光の中を歩いて進んだ。その光に目を眩ませながら、僕も穴の奥へと足を踏み入れた。

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