第13話 妖しげな光の満ちる部屋

 真っ暗な廊下の奥に、四角く切り取られた光があった。光はゆらゆらと波立って、花の香りに染まった風を、僕の元へと連れてきた。光の中に、男の人の影が立つ。その光と影を切り取るように、金色の模様が刻まれた、黒い岩板が額縁となって部屋の入口を囲っていた。


「ウィステリア。それがこの花の名前だよ」


 男の人が光の中へと足を踏み入れる。振り返った彼の表情は、薄い紫色に輝いてよく見えなかった。僕もその中へと進む。開かれた世界は光の祝福を受け、その眩しさに目が眩んだ。


「私が初めて見たときは、この光は生命の芯の強さを示しているように感じたんだ。日本では、この花を藤と呼ぶ」


 ようやく定まった僕の目は、頭上に咲き誇る薄い紫色の花々を捉えた。光を湛えた小さな花々が大きな一房の光を作り、それが天井一面に揺らめいていた。手を伸ばせば届きそうな花に包まれて、静かに佇む彼の姿は、どこかへと隠されてしまうようなはかなくも幻想的な空気をまとう。



 夕には 行き逢ふ子無き 山中に 人の気すなり 紫の藤



 不思議なリズムの言葉だった。僕の知らない世界にある、特別な呪文のように感じた。


「この景色に見合う歌ではないんだけどね」


「うた?」


「日本の文学の一つでね、限られた文字数で感情や風景を表現するものなんだ」


 彼は静かに語りだした。


「人通りのない夕方の山の中に咲いた藤の花。その温かみのある姿が、一人でいる淋しさを和らげてくれる。それがこの歌に込められたもの」


 それは彼の言葉の通り、この景色に見合うものではなかった。


「日本人は藤に、艶やかさや奥ゆかしさ、それでいて内に秘める強さを感じ取り、こうやって歌で表現したんだ」


 その言葉は遠くの誰かに向けられて、瞳に映るのは紫の光だけ。


「それならば、こんなにも藤が咲き乱れる状況で寂しさなど感じないはずでしょう?」


 つい口に出てしまった言葉は、心の中の僕の思いそのもの。美しく咲き誇る藤の花にも、その世界に染まる男の人にも置いて行かれ、僕だけが一人取り残されてしまっているようだった。


「一人で咲いていれば、その優しさで包んでくれる。皆の元に帰ってしまえば、その優しさも私たちがである事実を突きつけるだけだから……かな」


 彼は本能で感じたものを、そのまま言葉にしているだけのようだった。彼は僕の元へと戻って来てくれなかった。僕は何か返事をすることもなく、ただぼんやりとその景色を眺めた。揺らめく光と、花に包まれる一人の男の人を。



 彼が静かに足を進めた。それを視界の端に捉えた僕も、何歩か後ろをついて歩いた。


「そこに見えるのが、藤の幹。この部屋の花は全て、この一本の藤の木なんだ」


 円形にぽっかりといた床下から、しなやかな幹が天井へと伸びる。それは途中から花に覆われ、どこまで続いているのか僕の目では判断できなかった。


「橋の下を見るといい。それもまたこの部屋の楽しみ方だ」


 彼は僕に背を向けて幹から離れた。見上げるのを止めた僕は、彼の隣へ歩いてかがんだ。彼の『橋』という言葉を認識するのは、そう難しいことではなかった。


 紫色の光が満ちる中、僕と男の人の二人の顔が映る。今まで歩いてきた床は、水の流れの上に作られた道だった。揺れる藤は水面に反射し、この部屋全体を淡い光が包んでいた。


「ここの藤は特別で、普通の藤と違うところがいくつかある。その一つは、一年中花を咲かせていること。本当の見ごろは四月や五月なんだけど、逆にその時期は見ることができなくなってしまう」


 こんなに近くにいるのに、どうしてかけ離れていると感じてしまうのだろうか。彼の言葉は壁の向こう側から聞こえてくるようで、どうにもはっきりしなかった。


「その原因は、もう一つの特別なことが関係している。この部屋の藤の光となっている、『藤灯とうとう虫』によるものなんだ」


 水面に映った彼の顔が、笑ったような気がした。藤の花の揺れる光のせいで、その表情なんて分からないはずなのに。僕の脳に媚びり着いているのは、水面に残る鈍いインクだけなのに。


「藤灯虫は一つ一つの花の中に住んでいる。藤の花の最盛期になるとここにいる全ての藤灯虫が飛び回る。その光の源は電気だから、激しい稲妻がこの部屋を駆け巡るんだ。この現象が『藤雷とうらい』。さすがに危ないから、ここの通路は封鎖されるんだよ」


 この幻想的な空間も牙を剥くことがあるということだろう。ただどんな時でも、僕は敵と見られているように感じたが。僕を一人にして、周りの全てを奪うように。


『僕は死神だから』


 そうだった。僕は最初から一人だった。それは最初から諦めていたこと。


『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』


 合言葉だけが僕を唯一支えてくれるもの。いつの間にか寂しさを感じるようになった僕の心だが、涙が出ることはなかった。


 彼は何も話さなくなった。ただ僕の隣で、かすかに微笑んでいた。その横顔が、僕たちの間にあった境界をより濃くしてしまったようで、ずっと言い聞かせてきた人形の笑顔さえも、いとも簡単に外れてしまった。


 

「そろそろ次へ行こうか」


 もう一度笑顔を張り付けて、立ち上がった彼の後ろを歩く。橋を渡り終え、額縁から出る。そこにも金色の模様が描かれ、四角い光が零れていた。


 彼が差し伸べた手を握る。そこからは変わらず、暖かな光が流れ込んだ。彼は内に光を湛える者。僕は闇を湛える者。それは一生変わらない、僕たちの間の境界だ。


 暗い廊下を通り抜けて扉を開く。その先にあったのは、下へと続く薄暗い階段だった。

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