第12話 知恵の大樹は内に広がる

 秘密基地を離れ、僕たちは初等部の廊下へと来ていた。すでに人のいなくなったこの場所は、いつもと様子が違うせいなのか、異常に寂しく感じられた。


「次に案内するのは、学院の重要な役割の一つを担っている場所だから」


 そう言って彼は、僕に大丈夫かと確認した。彼の言葉はその場所が学院の中心部にあることを示し、より多くの人の中を歩くということを告げていた。


「大丈夫です」


 男の人の言葉は、それを知った上で僕に来てほしいということ。ならばその意思を肯定するべきだと、心の中の僕も告げるはずだ。


 それに何度か人混みの中を歩くことがあったが、フードを被った僕が死神であることに気づく人などいなかった。この髪と瞳さえ隠していれば、誰も僕のことなど見ていなかった。


「…………」


 僕の言葉を疑うように、彼はじっと僕を見つめた。今回は僕も目を逸らさなかった。その湖が穢されていても、ここで目を離してはいけない。


 それは僕の本心が伝えていることだった。


「分かった。……行こう」


 僕の様子に彼は安心したようだ。彼が笑うと、手から流れてくる光が強くなるような気がした。



 初等部の廊下の中央には大きな階段がある。空間の寄せ集めである学院は、複数の層の構造をしていた。下の階層ほど中心部として重要な機関が多くなり、上の階層ほど学院の末端、個々に割り振られた部屋となる。それらの階層を繋いでいるのが大階段であり、小道のような扉と違って、それは学院を支える軸の役割をする。僕たちが今いるここも、その大階段の一つだった。


 階段を下へと降りていく。中心部に近づくほどに、人はどんどん増えていった。溢れるような人の流れは、最初から決まっていたかのように、誰も逆らうことができなかった。


「離れないようにね」


 彼の手が強く握られる。僕もそれを握り返し、隙間を空けないよう彼のすぐ後ろを歩いた。



 人も増え、いよいよ身動きが取れなくなろうかという時、男の人の足は流れとは違う方向へと向かった。流れを止めるように出た通路は、人もまばらな広い廊下だった。


 先ほどまでの人の多さを考えると、すでに学院の中心近くに来ているはず。明かりは十分に差し込み、所々に装飾もされている。それなのに人だけ少なかった。依頼所で感じたような活気は、そこになかった。


「この模様を覚えておくといい」


 廊下に入ってすぐ、立ち止まっていた彼が床を指差した。白くツルツルとした石造りの床に、茶色の線で大きく模様が描かれている。半分は森、もう半分は街という環境の中、くつろいだ人間や動物たちがそれは楽しそうに過ごす。


「これがこの階層の目印。ここまで来ればもうすぐだ」


 僕が顔を上げたのを確認して、彼はゆっくりと歩き出した。コツコツとした足音が鳴る。それはあの教会の音に似ていたが、音が重なることはない。


「ほら、もう着いた」


 随分と小さな扉だった。廊下が広いからそう感じるのかと思ったが、彼が軽く頭を下げたのを見て、それは勘違いではないと悟った。


 小さくて短い通路。扉の先は、その扉の大きさに見合った廊下へと続いていた。


 その視界の奥、この廊下のつきあたりには何かがゆらりと光っている。先へと足を進める彼に手を引かれ、歩いたのはたった数歩。床に揺らいでいた光のカーテンは、すぐ隣の扉からのものだった。


 彼がその扉に手をかける。横に滑らせ見えたのは、円筒状に上へと伸びる巨大な空間だった。通称『大樹』。ここは全世界の書物が集まる場所。この世界に唯一存在する図書館だった。


「図書館は、空間が扉を介さずに繋げられた特別な場所なんだ。だから一つの空間にいながらも、他の空間を覗くことができる」


 円形の部屋が縦に何層も重なり幹となって、その壁から枝のようにいくつもの空間が繋がった。その造りが木に例えられ、最大の規模を持つこの空間は『大樹』と呼ばれるようになったのだ。


 大樹の一番底にあたる場所に、今僕たちが立っている。首が痛くなるほどに見上げても、天井を確かめることはできなかった。ただ見渡す限りの壁一面に、隙間なく本が並んでいた。この空間の壁全てに本が存在するとすれば、その冊数は計り知れないものとなるだろう。


「ちょっと移動しようか」


 彼は階段へとまっすぐ進んだ。


「図書館はいろいろと特別でね、他の空間との出入り口が一つしかない。さっき通ってきた通路以外に、出入りできる場所はないんだよ」


 彼がまっすぐ腕を伸ばす。振り返った先、この空間に唯一存在する扉から、今しがた誰かが出ていった。それは先ほどよりずっと小さくなっているような気がした。それは気のせいでしかないのだが、そう感じてしまうほどにこの空間は大きすぎたのだ。


「最初は……、私がよく行く場所に案内しようか」


 にこりと笑った男の人は、そのまま階段を上っていった。


 紺色の絨毯が敷かれた階段。夜空のように金色の刺繍が施されている。そしてその絨毯の下に隠れた板に、小さな飾り彫刻が施されていた。遠くから見ていた時には気付かなかった、細かな模様が集まってできた線の大半は絨毯に覆われ、その鮮やかな色も相まって、よくよく見なければ気づかないほどだった。


「どうかしたかい?」


 僕は首を横に振った。数段上にいる男の人は、振り返って僕を待っていた。


 

 三階のとある部屋。


「ここは私が研究している日本について書かれた書籍のスペースなんだ。そして……、これかな?」


 彼が手にした本には、見たことのない文字が並んでいた。


「学院の歴史。創設者コーデリア=ラインズと二人の弟子、ヨセフ=アシュレイ、フミカ=ヒノモトについて」


 アシュレイにフミカ。その名前には覚えがあった。お父さんが語ってくれた昔話に登場する、僕の祖先の賢者たちだった。


 自分のことなど、まだ一言も話したことがない。それなのにこの本を差し出したということは、彼は僕のアシュレイという姓とこの姿を見て判断したということだろう。それほどに、僕のこの姿は特異であるということだ。


「コーデリアが得意とした空間魔術であらゆる場所を繋ぎ、弟子の二人が学院というシステムを構築した。それは壮大な計画の一部でしかなく、完成するのはその孫弟子の時代まで及ぶ」


 彼はそう呟いて本を閉じた。結局、彼が開いた本に何が書いてあるのかは分からなかった。


「図書館の基本的なシステムだけどね……」


 彼は立ち上がってこの空間の中央へと進む。大樹の幹となる吹き抜けを見下ろすように、彼は手すりに肘をついた。僕は手すりを支える柱の間から、下の階層を覗き込んだ。


「中心に見えるのが図書館のカウンター。本の手続きや相談は、そこの司書さんにするといいよ」


 大樹の底の木のテーブルで囲まれたスペース。ロッキングチェアに揺られていた司書さんは、気持ちよさそうに本を読んでいた。


「足を運ばなくても利用する方法があるから、わざわざここを訪れる人は少ないんだ。でもこういうのって、実際に手に取ることが大事だと思うんだよね」


 この場にいる誰もが本に夢中だった。誰も僕を見ようとしない。それはフードのおかげでもあったが、誰もが読書を心から楽しんでいた。彼もその内の一人だから、こんなにも楽しそうに案内をするのだろう。本などまともに読んだことのない僕でも、こんな風に楽しむことができるのだろうか。


「案内したい場所がもう一つあるんだけど、その前に寄り道をしてみない?」


 心から楽しいとき、人はこんな顔をするのか。


 いくつもの廊下を歩いた。先へと進むにつれてすれ違う人が少なくなって、途中から誰にも会わなくなった。誰もいない暗い廊下は隅に蠢く何かを感じ、明るい廊下はその違和感に寒気が走った。辿り着いた廊下は一段と暗く、それがわざとであるかのように、かすかな光が揺らめいていた。

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