第5話 夢見るための招待状

 次の日から、僕は空き時間を箱庭で過ごすようになった。そこはいつも天気が良くて、冬だというのに太陽の光がぽかぽかと温かかい。鋭い視線で体が震えて疲れ切ってしまう僕の体は、この時間がなければ壊れてしまっていたのではないだろうか。僕の日常が変わらずとも、この救われるような時間のおかげで僕は普通に過ごすことができた。

「何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ」

 誰にも聞かれることのないこの場所でなら、合言葉も口に出すことができた。あの日に貰った鍵を握りしめて、あれは現実の中の夢の話だと戒めるように。僕の本当の現実ではないから、二度とあのような時間を過ごすことはできないから。こうして変化のない日々がずっと続くのだろうと、その時の僕は思っていた。

 その日のお昼休みも、僕はいつも通り箱庭を訪れた。扉を開けてすぐ、その違和感の原因に気が付いた。ベンチに座った男の人の、ブロンドの頭がこくりこくりと揺れていた。その後ろ姿だけではそれがあの人であると判断できない。しかしあの人しか考えられない。夢の時間の中で、人がほぼ来ることのないこの場所を教えてくれた人。

 今なら気づかれずにこの場を立ち去ることができる。でも立ち去ったところで、僕の居場所はどこにもない。元から選択肢などあるはずがなかった。

 その人の頭はまだゆったりと舟を漕いでいた。とりあえず様子を見るだけなら問題はないだろうと、僕は音をたてないようにゆっくりゆっくり近づいた。そうしてベンチの影から顔を出した瞬間、目を覚ましたその人がこちらを向いた。

「ああ、サイラス君。会えてよかった」

 気配を殺して音も立てなかったはずなのにどうして気づいたのだろう。大きなあくびをして背筋を伸ばした彼は、悪意を知らないような笑みを浮かべて、その無垢な瞳が僕には恐ろしかった。

「……こんにちは」

「うん、こんにちは」

 何も言葉が思い浮かばなくてとりあえず挨拶した僕の表情は相当歪んでいただろう。どうしてもこの人たちの前では、いつものように笑うことができない。

 彼は挨拶を返した後、そのまま前を向いて黙り込んだ。それ以上は何も話しかける気がないようで、僕はその隣に腰を下ろした。鞄の中からお昼ご飯を取り出して、ちらりと横目で確認しても、彼はじっと空を見つめたままでこちらを気にする素振りはない。それからお互いに何も話さず、沈黙の中で僕のお昼ご飯だけが減っていった。

「ここはいつも天気がいいですね」

 つい魔が差して口に出した言葉に彼からの返事はなかった。話しかけてはいけなかったのだろう。その証拠に、これまで彼はずっと口を閉ざしたままだった。黙っていればよかったという後悔はいくら手を動かしても消えず、食事の間ずっと僕の頭の中でグルグルと巡った。


「……ここは変わった場所だから」

 ちょうど昼食を終える頃、彼は唐突に話し始めた。その瞳に映るものはなく、この小さな箱庭のその先、塀の向こう側を見つめているようだった。

「変わった場所、ですか?」

「そう……」

 彼は長く息を吐いた。そしてそれまでの考え事を吹き飛ばすようにして、満面の笑みでこちらを振り向く。

「そんなことより、今日はサイラス君にお願いがあるんだ」

 彼は楽しそうに懐から一通の封筒を取り出した。それまでの静かな様子など微塵も感じさせない、僕の知っているあの時の彼そのものだった。

「君に学院を案内させてほしい。この前の依頼では紹介できなかった、気に入ってもらえそうな場所がまだまだあるんだ」

 手渡された封筒は見覚えのあるものだった。銀色の蝋に学院の印。それは依頼所から宛てられた手紙で、彼からの正式な依頼だった。

「……もちろん、嫌なら断ってもらってもいいから。よく考えてくれると、嬉しいな」

 僕がじっと黙っていたからか、彼は少し寂しそうに言葉を付け加えた。あの日の現実の中の夢に、もう一度連れて行ってくれる招待状。それは何ものにも代え難い贈り物だったが、僕は一言も返事をすることができなかった。

 あの夢の中で僕はひどく疲れてしまったが、それは決して嫌な疲れではなかった。今まで感じたことのない、心が満たされてふわふわとどこか気持ちがおぼつかない感覚。でもそれは夢の中での話であって、現実に戻ったときには嫌なものに成り代わって僕の体を鉛のように重くした。それを知ったうえで、そのひと時のためだけに再び夢を訪れることができるだろうか。それは今すぐに返事ができるほど簡単なことではなかった。

 僕が黙ったまま手元の封筒を見つめていると、彼は何も聞かず何も言わず箱庭を出ていった。さわさわと冷たい風が髪を撫でる。少し寂しげな後ろ姿は、夢の中で光を与えてくれた人物には見えない。その変化の原因が僕であることに心がギシギシと軋みを上げる。

『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』

 それが痛みを伴う前に、合言葉が耳へと届いた。

『住む世界が違うんだ。僕に何が分かるというの?』

 無邪気な声は僕の本心を語っているだけ。だからいつもそれに従ってきた。それが僕にとって正しいことだったから。それが安全な道だったから。

『僕は人形なんだから。勘違いしないで』

 僕に彼の気持ちなど分かるはずがなかった。人形には……死神には人間の気持ちも考えも理解できない。僕はそれを知っていたから、こうして人間の中で生きてこれたんだ。

「この依頼、受けるべきなんだろうか?」

 僕は何気なく質問した。声に出せば正しい答えを教えてくれるのではないかと期待して。聞こえてくるのは風の音。心の声は聞こえない。ただ少しだけ笑われた気がする。

 息を吸って、ゆっくりと吐き出す。返事がない理由は一つだけ。心の声の主は僕自身で、その僕が答えを見つけていないから。

 これは大きな問題だった。


 それから気づけば一週間も経っていた。お昼休みに箱庭のベンチでお昼ご飯を食べることはもう日課のようなもの。誰もいない相変わらず天気の良い箱庭で今日も、僕はご飯を食べていた。こうしてゆったりできる時間は僕にとって貴重であるというのに、どうしても頭の片隅で例の依頼がちらついてしまう。断ろうか受けようか。いつもその答えは見つからず、これまでの進展など皆無だった。

 次の授業が始まるまで、心地よい日差しの中で僕は鞄の中から鍵を取り出してぎゅっと握る。

『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』

 すでに習慣化していた合言葉を唱える時間。口角を上げて目を少し細める。授業が始まればまた人形の内へと籠らなければならない。握り締めていた夢の証を鞄にしまおうとしたその時、その先に何かタグのようなものが括り付けられているのに気付いた。


 夕方、カフェで待っています。 マスター


 見覚えのない紙に綴られた言葉。整った文字は機械のように感情もなく並んでいた。

 一体いつの間に結ばれたのだろう。僕はこの場所に一人でいるとき以外、決してそれを鞄から出すことはなかった。外では僕に近づく人など誰もいないし、家族がこれに触れることなどなかったはずだ。

それに文面を見れば、これを取り付けたのはあの夢で会った女の人だと推測できる。あの時以来会うことはなかったから、何かの魔術なのだろうか。だとしても、僕に理解できるはずはないし、問題はそこではない。問題は、彼女が僕を待っているということだった。

 何が目的で、彼女は僕に会おうとしているのだろうか。もしかして、使ったことのない鍵を返すように言われるのかもしれない。今まで訪れたことのない、これからも訪れないであろう人に鍵を預けておく義理などないはずだから。魔術を付与されたものなのだから、僕が持っておけるほど価値の低いものではないということは確かだった。

『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』

 もう一度口角を上げる。今はこのタグのことは忘れよう。もうすぐ授業が始まる時間だ。僕は、また人形に戻らなければ。


 授業を終えた僕はまた箱庭へ足を運んだ。相変わらず空は高く雲もない。まだ気持ちの整理も付かなければ考えもまとまってはいない。僕は鍵を取り出して、そこに書かれていた文字をもう一度確認した。その文章に変わりはない。どうせ行かなければならないのだろうから、僕は廊下へつながる扉の前に立って鍵を握り締めた。

 深呼吸。鍵の頭をゆっくりと扉に三回打ち付ける。何も変わった様子はないが、扉の先はあのカフェへとつながったのだろうか。


 カラン


 ゆっくり扉を開けると、あのベルの音が響いた。

「いらっしゃい」

 コーヒーの香り。僕を呼び出した彼女は、カウンターの向こうでにこやかに迎えてくれた。

「何を飲む?」

「えっと……」

「今日は私の用事で来てもらったから、もちろん奢らせてもらうよ」

「じゃあ……オレンジジュースを」

「オレンジジュースね」

 彼女は楽しそうな様子で動き始めた。その足取りは軽くて鼻歌が聞こえてきそうなほど。何か嬉しいことがあったのだろうか。それとも僕が呼ばれたのは、想像していたようなこととは違って良いことがあってのことなのだろうか。

どちらにしても、この空間にいると自分の感覚がおかしくなったように感じてしまう。日常のあの視線を浴び続けることがなくてゆっくりできるはずなのに、トクトクと動く鼓動は落ち着きがない。

「お待たせしました。ほら、座って」

 僕は促されるまま彼女の前に座った。用意されたジュースのグラスは相変わらず大きくて、炭酸が果肉を躍らせる。一口飲めばそのオレンジの濃さが口いっぱいに広がり、この空間の特別さをより一層引き立てていた。

「それで、今日は相談があって来てもらったんだけど……」

 にっこりと笑うその表情はまるで子供が悪戯を仕掛けているかのような、そんな独特な笑み。口の中に溜まったつばを飲み込んで、僕は次の言葉を待った。

「ラヴィの依頼を受けてほしいんだ」

「…………」

 それは予想外の言葉だった。まさか彼女からあの依頼についての話が出るとは。しかし元々この場所を教えてくれたのは彼で、彼女に依頼のことが伝わっていてもおかしくはない。

「ラヴィはどうもボクのことが気になるみたいでね。いつも自分の研究について楽しそうに話すのに、最近はずっと心ここにあらずって感じ。まあ、ラヴィのことを知ってくれるだけでもいいから、ね?」

「えっと……」

 彼から依頼についての封筒を貰った日、別れる際の後ろ姿がとても寂しそうだったのを覚えている。その様子を見てひどく申し訳なく思っていたけど、まさかそれをずっと引きずっているとは思わなかった。

 彼とはまだ二回しか会っていない。それなのにどうして、僕のことを気にするのだろう。どうして彼や目の前にいる彼女は、僕を普通の人のように扱うのだろう。

「ボクは死神って何だと思う? 黒い髪と瞳、それが示す意味は何だと思う?」

 突然の核心を突くような問いに、手元を見つめていた僕は顔を上げた。まっすぐこちらを見つめる彼女と目が合う。その赤みがかった褐色の瞳に僕の姿が映っているのが見えて、僕はすぐに視線を逸らした。

「それがラヴィの研究。ボクがずっと私たちに疑問と感じているみたいだから、少しは教えてあげないとね」

「あの人の……研究?」

「そう。詳しいことはボクが自分で学んでいくといいさ。私はあまり助言をするたちじゃあないから」

 僕のこの姿は死神と深く関係がある。そしてそれを知ったのは、昔お父さんが教えてくれたから。そしてそれを今、彼が研究している。

彼はその事実をどこまで知っているのだろうか。何を思って僕に近づこうとしているのだろうか。その答えは既に見つかっているというのに、知りたくなくて僕は目を瞑った。

『僕は死神だから』

どうして傷ついているのだろう。最初から分かっていた。これまでずっと、どんなことがあろうとも弁えているはずだった。

それなのに最近はその感覚がずれてしまっていた。おかしなところはいくらでもあって、引き返すことはいつでもできたはず。だが僕はそれらから目を逸らして、こうして事実を伝えられるまで心地良いまやかしに浸りきっていた。まやかしは、いずれ消えてなくなってしまうというのに。

「ラヴィにチャンスを与えてはくれないかな?」

「……はい。分かりました」

 僕はいつも通りの笑顔を作った。ここでのことも、日常の延長上にあることに変わりなかった。それならば僕の対応も変わらない。できる限り周囲への変化を生まないように。ただの人形として、求められるがまま動く。それが僕なのだから。

「よかったよかった。ラヴィも変に引っ込み思案な所があるから」

 彼女は満足そうに笑った。これでよかったのだろう。少し間違えてしまっていたけれど、これでいつも通り。また元々あるべき僕の日常に戻るだけ。

「あっ、それとね……できればラヴィのことを名前で呼んであげてね」

「……はい。分かりました」

 名前で呼ぶ。そんなことを言われたのは初めてだった。そんな当たり前のこと、僕だって……。

『僕が呼ぶ名前なんてあるはずがないだろう?』

 考えたことがなかったから、気づくこともなかったのだろう。僕は今まで、誰一人として名前を呼んだことがない。あの男の人のことも目の前にいる女の人のことも、ここで会ったもう一人の男の人のことも日常的に会う人たちのことだって、誰一人として名前で呼ぶことはなかった。

 僕は改めて彼女に微笑んだ。彼女もにこりと微笑んで、それから何やら自分の作業へ戻っていった。

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