第4話 休憩は落ち着いた場所で
カラン
「いらっしゃい」
「マスター、何かジュースと……スイーツをお願いできますか。それと私はいつものを」
コーヒーの香りが溢れ、落ち着きのある音楽が流れる。木のぬくもりに包まれたお店の、そのカウンターの内側にマスターと呼ばれた女性が立っていた。
「少し席を外すので、この子のことをお願いします」
そう言って彼はマスターの前の椅子に僕を降ろし、そのまま先ほど入ってきた扉から出て行ってしまった。何も状況が掴めていない僕を、話したこともない人と二人きりに残して。
「ボク、大丈夫かい? 目が腫れているようだけど」
彼女はこの状況に困惑する様子もなく淡々と尋ねた。そして冷たいおしぼりをくれて、それを目に当てるようにと促した。
僕は彼女の言葉に従って、貰ったおしぼりを目に当てた。それはとても不思議な感覚だった。初めて会ったばかりというのに、こうして普通に会話できている。おしぼりの隙間からちらりとその様子を覗いても、その表情はいつも僕が見ている人たちの表情とは違う。赤色の短髪に褐色の瞳、深いしわの刻まれた目元も口元も微かに笑みを浮かべているように見える。
「ジュースは何がいい? オレンジとリンゴ、あとミルクならあるよ」
「えっと……」
すぐに返事をすることができなかった。今置かれている状況を、どう理解すればいいのだろうか。ふわふわと心許ない足元に、言われるがまま答えることが一番正しい行動なのだろうか。
「遠慮なんて必要ないから。飲みたいものを教えてくれていいの」
黙り込んだ僕に、彼女は有無を言わせない圧で笑いかけた。
「……オレンジジュースを」
「オレンジジュースね」
僕はただぼんやりとすることしかできなかった。今日はずっと予想外のことが起こる。僕にとってのいつも通りが、この人たちには通じない。理解しようと考えることが間違っていたのだろうか。
「はいどうぞ。自慢のオレンジジュースです」
それは飲み干せるか不安になるほどに大きなグラスに並々と注がれて、グラスを持ち上げれば零れてしまいそうだった。
「何か食べられないものとか、嫌いなものとかあったりする?」
「特には……ないです……」
グラスに口を近づけて、僕はほんの少しそれを飲んだ。パチパチと炭酸が弾けて、オレンジの粒が躍る。ただの飲み物ではない豪華なそれは、非日常の今を象徴しているようだった。
「じゃあ準備してくるから、目を冷やしておくんだよ」
その言葉に従って、目を覆い隠すようにおしぼりを当てた。現実を理解できないのなら、少しでもそこから目を逸らせばいい。真っ暗闇は僕の世界だから、そこにいるだけで落ち着く。たった一人の味方も、その場所でなら会うことができるから。
「お待ちどうさま」
声をかけられた僕はゆっくりとおしぼりを外した。目の前に置かれていたお皿には僕の手よりも大きなプリンが乗って、カラメルソースの代わりに生クリームやラズベリーソースが添えられていた。そのピンク色が鮮やかでかわいらしい見た目はまるで宝石みたい。手を付けるのがもったいなくて、僕はお皿を回したり首を伸ばしたりして色々な角度からそれを眺めた。
「それ手作りでね、口に合うといいんだけれど」
彼女の言葉で僕は我に返った。つい見とれてしまっていたが、これは僕が食べるために用意されたもの。顔を上げれば微笑む彼女と目が合って、どうやら僕は彼女に見つめられていることにずっと気づかずにいたらしかった。
「色々疲れたんでしょう、いつもと違うって。疲れたときはおいしいものを食べて休むといいの。頭を使ったのなら、甘いものでも食べなくちゃ」
「……いただきます」
そのプリンの完成された形に、僕はゆっくりとスプーンを入れて掬い上げた。少し硬めのプリンはほろりと崩れて、口に入ればクリーミーな卵の味わいと生クリームの甘み、ラズベリーの酸味が交じり合う。山のように盛られたプリンはその配合で毎回違う味を生み出し、食べ進める手が止まらなかった。
カラン
「マスター、ごはんを頼む」
それはあの男の人の声ではなかった。我に返った僕はスプーンをお皿の上に落してしまい、部屋の中に大きな音が鳴り響く。
「珍しい客だな」
張り詰めた空気の中で、その人が呟いた言葉が頭の中をグルグルと巡る。臓腑の底から響くような重低音。白く短い髪の所々に深い青色の髪が混じる。蓄えられた顎鬚に、しわが刻まれて固く結ばれた口。隣の椅子に腰かけたその圧倒されるような存在感から、僕は震えを隠すためにグラスを握りしめた。
これまでの二人はなぜか僕に優しくしてくれたが、僕は通常そういった扱いを受けられる人ではない。もしこんなにも近い距離で、僕が受けるいつも通りの対応をされれば、それに耐えられるだけの余裕が今の僕にはない。気を抜きすぎてしまった。現状を理解できないからといって、自分の立場を忘れるべきではなかった。
「この子はラヴィのお客さんよ。ここまで抱きかかえて来て、よろしくって言って出てっちゃった。腫れていたまぶたも、もう大丈夫そうね」
彼女の口からあの男の人の名前が出た瞬間、急に背筋に嫌な寒気を感じた。話している本人はとても和やかな表情で変わらないのに、話せば話すほどに空気が凍てついていった。
「おまえさん……あいつに何を言われたんだ? 何かされなかったか?」
灰色の色素の薄い瞳がこちらを睨みつける。いくら強く握っても手の震えは止まらない。汗は全身から溢れ出して、呼吸をしようにもそれが許されるような空気ではなかった。
「遂にやらかしやがったか。いつかこうなると思ってたんだ!」
男の人の眉間にしわが増える。深いため息をついても真っ赤に染まった顔は変わらず、怒りが収まらないようだった。
「まだ賢者は来てないな。おまえさん、家の住所は言えるか? 俺が家まで帰してやる」
怒りに染まった顔が近づく。肩に添えられた手の大きさが彼の力強さを誇り、重厚感のある声が僕から逃げ場を奪い去る。
僕は何もできなかった。ただただ怖かった。何をされるか分からない。何が起こるか分からない。いくら目を逸らそうとしても、その現実は許してくれない。無理やり見せつけられる恐怖から身を守るためか、僕は既に意識を失いかけていた。
体がふわりと浮いた。どうやら僕の体はその男に抱えられているらしい。おぼろげな視界の中で口が動いているのは分かったが、その声は僕の耳に届かない。どうやら彼はこのお店の出口へと向かっているようで、徐々にカウンターが遠くなっていった。そこに立っている彼女が、大きく肩をすくめているのが見えた。
カラン
「あっ、申し訳ありませ……。あの、何をしているのでしょうか?」
ちょうどお店の出口に差し掛かっていた僕たちに、その扉が勢いよく開いた。僕を抱えた男の人はギリギリのところでそれを避け、そして扉の先から現れた人物を見るなり眉を吊り上げて口を大きく開けた。
「ラヴィボンド!」
その後、彼が何を言っているのかは分からなかったが、僕の依頼を受けてくれた彼に対して怒鳴っていることだけは確かだった。厳つい表情で彼に詰め寄って、力の入った腕がわなわなと震えている。
その様子を見て、意識を失えないでいた僕の心は限界を超えてしまったらしい。瞳を涙の膜が覆い、器から溢れたものは次々に流れ落ちた。涙のフィルターを通した世界は不思議と煌めいて見えるみたいで、どうしようもない感情から僕は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「そこまで!」
女の人のよく通る声に、僕を抱えている腕が揺れた。急に静まり返った室内で、一体何が起こっているのだろうか。状況が掴めない僕はただ同じ体勢でその腕に身を任せるだけ。
「ほら、注文のコーヒーとご飯だよ。そんなところに突っ立ってないで、早く座りなさい。じっとしてても何も変わらないでしょう?」
その言葉に促されて、またカウンターへと戻って来た僕の体は先程まで座っていた椅子に降ろされた。
「ボク、ごめんね。驚いたよね。もうゆっくりしていていいから」
彼女から新しいおしぼりを手渡されて、僕はそのまま目を覆った。とにかく一人になりたくて、闇の中に溶け込みたくて、周りの音も何もかも無視して固まった。僕が一番落ち着ける環境に、無理やりにでももっていった。
「ごめんな、勘違いしちまって」
暗闇の中で心を落ち着けた僕が顔を上げると、既に話し合いは終わっていたみたいだった。
「こいつがおまえさんを誘拐しちまったのかと思ってな。ろくに返事も聞かずに行動しちまった。本当に申し訳ない」
彼は深々と頭を下げて、僕に心から謝っているようだった。もうそこに冷たい空気は無くて、彼の表情から険しさも消えていた。
「俺はラルフ=ノーマン。ここの常連で研究者をしてる。ラヴィの先輩だな」
「サイラス=アシュレイです」
彼に差し出された手に、僕は自分の手を重ねた。もう彼のことが怖くはなかった。大きな手はとても力強そうで、相変わらず厳しそうな表情をしていたが、彼の纏う空気は苦しくない。心地よささえも感じられるような気がした。
「今日はもうお開きね」
僕とカフェで会った彼との仲直りを見届けて、彼女は安心したようにそう声をかけた。
「珍しいですね。もうお店を閉めるんですか?」
「そうじゃなくて、これで依頼は終いだと言っているの」
その言葉を聞いて、僕の依頼を受けてくれている彼は首をかしげて固まった。どうやら彼女の言葉をうまく処理できていないらしい。
「どうして……ですか? 学院の案内はこれからですよ」
少しずつ言葉を拾い上げて尋ねられた質問に、彼女は小さくため息をついてそれから一瞬だけ僕に目を向けた。
「これ以上疲れさせるのはおすすめしないけど……、まあ私が口出しすることじゃないか」
彼女が僕から目を逸らす代わりに、今度は彼がこちらに目を向けた。
「ぼっ、僕はまだ大丈夫です……」
誰にも迷惑をかけるわけにはいかない。それは本能的に選び取った言葉だった。
彼は僕が汚した服をわざわざ着替えて来てくれていた。それも嫌な顔をせずに、面倒そうな態度をとることなく。そうまでして、僕が貰ったプレゼントであるその依頼を完璧にこなそうとしているのに、僕が足を引っ張るなど許されない。
「……ここまでにしておこうか」
大きな手が僕の頭を撫でた。いつも通りの笑顔を浮かべることができていたはずなのに、結局僕は彼の邪魔をしてしまった。今の僕は人形になりきれていなかったのだろうか。どうして僕はこうも迷惑をかけてしまうのだろうか。
「すみません……」
彼の手から温かな光が流れ込む。それはとても心地良いはずなのに、僕の惨めな気持ちをより深くするだけだった。いくら謝っても、この感情を晴らすことはできないだろう。
「それじゃあ、さっきの場所を案内してから依頼所に行こうか」
彼が立ち上がった。それを追うように立ち上がろうとした僕を制して、女の人が手を差し出した。
「使い方は分かるかな?」
彼女は楽しそうに小首をかしげて、まるで悪戯をこっそりと教えてくれているようだった。そして僕の手の中には、一本の古びた鍵があった。鍵の頭を持って手首をひねる。鍵は錠に対して使うものだから。
「鍵の頭でそこらの扉を三回ノックする。するとその扉はここへの通路になる。そして帰りは入ってきた扉につながる。そういう魔術だ」
「魔術じゃなくておまじないだよ」
「そうだったな」
隣でご飯を食べていた男の人の手の中で、くるくると回された鍵がまた僕の手に戻る。彼と彼女の掛け合いは、どうやら日常的に行われていることらしい。返って来た鍵を握りしめて、僕は顔を上げて彼女を見た。
「これを……僕に?」
「ええ。またいつでもおいで」
その言葉に、僕の心は高鳴った。そんな言葉が貰える日が来るなど考えたこともなかった。こんなとき、一体どう返事すればいいのだろうか。言葉なんて出てこなくて、勝手に目が泳いでしまう。
「じゃあ、行こうか」
大きな手が僕の手を包み込んだ。立ち上がって扉へと向かう間もその手は離れず、少しずつ光が流れ込む。
「またね」
僕は軽く頷いて、笑顔に見送られながらその場を後にした。
扉の先は、僕たちが最初に訪れた箱庭だった。青々とした空の下で、心地よい風が吹いている。三回叩けばあの場所へつながり、あの場所を出れば元いた場所へ。つまり僕たちはこの箱庭の扉を叩いて、あの場所へやって来ていたということだ。
「この場所を知っているのは本当に限られた人だけ。教育部門の廊下まで案内するね」
そう言って先ほど出てきたばかりの扉を再びくぐる。足を踏み入れた場所でコーヒーの香りが漂うことはなく、周りを見れば学院のどこかの廊下のようだった。明かりは少なくて狭く、人通りもない。いつも僕が通っている廊下の賑わいを考えると、ここはずっと落ち着く場所だった。
「実際そう遠い場所でもないから、道はすぐに覚えられると思うよ。ほら、もうすぐだ」
その言葉は正しく、まだ数分しか歩いていないというのに廊下の先に見覚えのある扉の並びが見えた。ただしいつもと違ってその場は静寂に包まれ、騒がしいほどの学生の姿は見えない。最後の授業の時間を過ぎてしばらく経っているのだからそれも当たり前のことなのかもしれないが、それは僕にとって不思議で見慣れない光景だった。
「大丈夫そう?」
「はい」
迷うほどの距離もなく、道順も何度か角を曲がれば辿り着くという簡単なもの。それは必死になって覚えるほどのことでもなかった。
「なら依頼所へ行こうか。あまり遅くなるわけにもいかないからね」
そう言ってかがみ込んだ彼は僕にフードを被せて、つないでいた手をしっかりと握った。再び青い光が僕の視界を覆っていく。
次の瞬間には、僕たちは依頼所の前の広場に立っていた。依頼所に依頼終了の報告をすれば、これまでの不思議な時間が終わる。もう思い残すことはないはずが、なぜだかあと少しだけこの手を握っていたいと思えた。
「依頼終了の報告に参りました」
しかし僕の気持ちがどうであれ、もうすぐ依頼が終わることに変わりはない。彼が係の人に声をかけると、どうしたのかその人は慌てたように僕へと視線を移した。そしてじっくりと観察した後、僕に対して依頼内容についての確認を始めた。
「では今回の依頼について、合意のもと行われたということで間違いないないですね」
「はい」
今度は僕も戸惑わなかった。その返事を聞いた係の人は満足したように笑って、そして男の人に向かって何やら話し始めた。どうやら僕の同意を確認することも、依頼所の許可を得ることもなく依頼を進めてしまったがために注意を受けているようだった。
「今回が初めてのことですし、合意も確認できたのでこれ以上は言いませんが、次からは正しい手順を踏んで依頼を行ってください」
「気をつけます」
男の人は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「それではこれで依頼終了となります」
「ありがとうございました」
係の人への報告を終えて、彼は一つため息をついた。僕のせいで彼はすっかり疲れてしまったようだった。
「扉まで送りましょう」
そうして伸ばされた彼の手に関して、僕は首を横に振った。もう依頼は終わったのだから、これ以上優しくしてもらう理由はない。彼の負担になるわけにはいかない。
「ありがとうございました」
お礼だけ伝えて、僕はそそくさとその場から逃げ出した。振り返ることなく、人の波に飲み込まれる。
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