第2話 受け継がれてきたもの
七時にかけた目覚ましが鳴るのを、外の景色を眺めながら待っていた。
今日から僕は学院で授業を受ける。緊張と不安で押しつぶされそうだった夜はいつの間にか過ぎ去っていた。いつもと違う日常が始まっても、いつもと変わらない人生を送るだけ。頭の中で繰り返される問答はとても短絡的で、すぐに無意識下で行われるようになった。
「行ってきます」
仕事に復帰したお母さんを見送った後、僕は一人で朝食の席につく。ほんのりと温かいトーストに目玉焼きとサラダ。誰にも見られることなくただ静かに、僕はもそもそとそれらをお腹に入れた。
教会まで二十分。通りを歩く人の視線は鋭く、ジッと僕の動きを観察する。既に慣れきった日常の光景でも、怒鳴り声や舌打ちはしばらく耳に残って離れなくなる。そんな中で僕にできるのは気づかないふりをすることだけ。そうやって日々を凌ぐことを学んできた。そしてその日常が、学院の中だからといって変わることはない。
教会の廊下、学院へとつながる扉を開く。まだ誰の目にも僕の姿が映っていない間だけ、僕は普通の人になれた。ほとんど歳の変わらない学生が僕の前を笑顔で歩く。それはそれは楽しそうに、走ったり飛び跳ねたり肩をたたきあったり、誰もが温かな光に守られているようだった。
しかしそんな光景も長くは続かない。一人また一人と立ち止まって、光が失われて恨みのこもった視線がこちらに向けられる。固く結ばれた口は、言葉など使わずともその感情を露にする。また世界が暗くなる。僕のいる場所に、光が届くことはないのだから。
僕はいつも通り、周りのことなど見えていないかのような素振りで廊下を進んだ。彼らが僕を認識して、それから頭で状況を整理するまでの僅かな時間。その隙に通り過ぎなければ、足が捕らわれて動けなくなってしまうかもしれない。早く先へ。ここではない場所へ——。
注目を集めながら歩き続けて、僕は一つの扉の前で立ち止まった。耳の奥でドクドクと血潮が響く。既に僕の周りには、一定の距離を置いて多くの学生が集まり始めていた。周りに僕の進む道はない。そしてこの扉の先にも、それ以上の逃げ場はない。
進んでも地獄。振り返っても地獄。凍り付いていく体を無理やり動かして、僕は目の前の扉を開けた。活気ある騒ぎ声も、先ほどと同様に息を潜めていく。嫌な静けさが広い教室の空気を入れ替える。逃れられない運命に、僕の心臓は悲鳴を上げた。
『何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ』
口角を上げる。僕の視界はこの世界のあらゆるものを捉えない。何も見えない、ぼやけた世界は僕だけのもの。はっきりとしない視界で教室を歩いて、どうにか座れそうな席を見つけた。
僕が座って落ち着いたところで、教室の空気が変わることはなかった。こちらへの注目がチクチクと胸に刺さり、張り詰めた空気は肺を圧迫する。どんなに笑って固まっても、心までは人形になりきれなかった。すでに心臓は限界を超えて、授業が始まる前に疲れ切ってしまった。
「死神」
誰かの口から紡がれた小さな声。聞き慣れてしまったその言葉は、僕のもう一つの名前だ。
小さい頃はよく家族三人で出かけた。動物園、博物館、キャンプもしたし、釣りにも行った。その景色はどこへ行っても変わらない。ジッと鋭い目つき、眉間に刻まれたしわ、固く結ばれた口。幼かった僕でさえ不機嫌なのが分かるほどに、その態度はあからさまだった。
僕にはその原因が分からなかった。どうしてそんなにも不機嫌なのか。楽しそうにしていても、僕を見るなり顔をしかめる。僕は何か悪いことをしているのかと。
「ごめんね」
それが当時のお母さんの口癖。僕を抱いて流す涙に、僕は口を閉ざすことしかできなかった。理由を尋ねることなど、できるはずがなかった。そうして僕が黙って抱かれているとき、いつもお父さんは動かなかった。声をかけることも慰めることもなく、ただそこに立っているだけ。まるで僕たちとお父さんは全くの他人であるかのように、一瞬たりともその視線が送られることはなかった。
「お父さんは、僕たちのことが嫌い? お母さんのことが好きじゃないの?」
そんなことはないと、お父さんの口からただ一言欲しかった。家ではよく笑顔を見せてくれるから。お父さんもお母さんも幸せそうに、僕を抱きしめてくれるから。
「ごめん。なんでもない」
僕はお父さんに対してできた唯一の質問をすぐに取り下げた。お父さんは一瞬こちらを振り返ろうとしてくれたが、結局視線が交わることはなかった。開きかけた口も、言葉を残すことなく閉じてしまった。後に残った居心地の悪い静けさが、僕の期待を踏みにじっていく気がした。
「サイラスは、死神の話を知っているか?」
僕が質問してひと月ほど経ったころ、唐突にお父さんは話し始めた。真剣な表情でまっすぐこちらを見つめる、その声色は暗く重々しいもの。ああ僕は、開けてはならないパンドラの箱に手をかけてしまったんだ。そう理解するまでに、何の抵抗もなかった。
死神が訪れた。強大な力を持った死神の願いは世界の崩壊。自然は死神の言いなりとなり、世界からあらゆるものを奪い取った。災厄の中では何一つとして意志を持つことを許されない。ただ声を上げ、押し黙り、そして多くの生き物が動かなくなった。
そして死神の願いが叶えられようとしたその時、そこに一人の賢者が立ちはだかった。その賢者の力は死神には到底及ぶことがなかったが、その代わりに膨大な知識と繊細な技術を持っていた。賢者は自らの全てをなげうって、死神を連れてこの世を去った。
死神のいなくなった世界には光が戻り、再び平和な日常が訪れた。きっと今もあの世では、賢者が死神を留めているだろう。
「こちらの世界ではよく知られている、ただのおとぎ話のようなものだ」
初めて聞く話だった。よく知られているだなんて、僕が知っているのは死神というフレーズだけ。しかしその事実だけで、これから伝えられることが何となく分かったような気がした。
「そしてこの話で語られる死神の特徴は、……黒い髪と瞳を持つこと」
お父さんの言葉は、僕の予想を裏付けていった。街に出ると時折聞こえてきた死神という言葉は、まさしく僕を示すものだった。僕がこんな姿をしているから、お母さんは傷ついてお父さんは表情を硬くしたんだ。僕のせいで二人が苦しむことになったんだ。
「この世界には様々な姿の人がいる。だからあまり気にするなと言いたかったが、残念ながら黒い髪と瞳を持つ人は俺の知る限り二人しかいない。サイラスともう一人、今では死神と呼ばれるようになったフミカ=アシュレイという人物だ」
「フミカ……」
「そう。お母さんの遠い昔の先祖に当たる人。サイラスのこの髪と瞳の色は、彼女の血を受け継いでいるという証拠だ」
両親の髪は透き通るような銀色で、瞳はお母さんが深い緑色、お父さんが輝くような金色だった。それ以外の親族には会ったことがなかったけど、それでも底が無いかのように黒い僕の姿は二人と似つかないことくらい分かっていた。だから心の片隅で、僕は二人の本当の子どもじゃないのかもしれないと思っていたけど、そんなことはなかった。僕は正しく、お父さんとお母さんの子どもだった。
「どうかしたか?」
「ううん」
嬉しくてつい口元が緩みそうになったけど、お父さんの変わらない表情に僕は気を引き締めた。まだ話は終わっていない。
「さっきも言ったが、フミカ=アシュレイという人物はあの物語のモデルとなった人物だ。だが彼女は決して悪い人ではなかった。彼女は賢者として……英雄として讃えられるべき人だったんだ」
そのあと語られた話の中で、彼女はまさしく英雄だった。
二つの世界が存在した。僕たちが住むこちら側と、フミカの故郷『日本』が存在するあちら側。彼女が現れたのは、その二つの世界を繋ぐ門が管理される前のことだった。門のそばに一人で立っていた少女。まだ幼かった彼女を家族として受け入れたのは、後の夫となるヨセフ=アシュレイの家族だった。
二人は学院の前身である学問所で魔術を学んだ。そこでフミカの魔術の才能が見い出され、彼女は学問所を卒業すると同時に賢者となった。そしてそれを追いかけるように、ヨセフもまた賢者となった。今の学院のシステムを整備したメンバーにこの二人も含まれた。
二人は運命に導かれるように結婚し、子を授かった。その仲睦まじい姿は、誰もが羨むような幸せで溢れたもの。しかし大きな問題もなく過ごしていた賢者たちに、その時は訪れた。
天変地異——。
賢者として、家族として、二人はその真価を問われた。その結果ヨセフは命を落とし、フミカだけが生き延びた。世界を救うことができても、多くの命を取りこぼしたことは変わらない。この歴史が、彼女を死神へと昇華させた。
当時の人々の不安は、すぐにでも爆発しそうなほどに膨らんでいた。それをギリギリ押し留めるために、溢れ出る負の感情は対象をフミカへと変えた。
「余所者」
「侵略者」
「資格がないのにどうして賢者になれる」
「あれが災厄を持ち込んだんだ」
あらゆる侮蔑の言葉が投げかけられた。言葉に際限などない。亡くなったヨセフを救世主と崇めたて、その対極の存在としてフミカを死神と恐れ恨む。その思想が定着するのに時間はかからなかった。そしてその思想が人々の心のバランスを保ち、いつしか歴史を捻じ曲げることとなった。大衆に広まった思想を事実で覆すことはできない。結果今の時代でも、物語の中にフミカ=アシュレイの存在は無く、死神という悪が伝えられた。
「サイラスは何も悪くはない。それだけは覚えておいてくれ」
お父さんの悲しそうな瞳は、肯定以外の選択肢を許さなかった。
「分かった」
そう言って僕はお父さんの元を離れた。あの金色の瞳の光が揺らいでしまうと、まるで自分の瞳がそれを飲み込んでしまっているのではないかと不安になる。全てを飲み込むこの色が、死神の色だと思われていても否定ができない。あのままお父さんに見つめられ続ければ、あの瞳は光を失っていたかもしれない。たとえあり得ないことだと理解できていても、心で納得することはできなかった。まるで自分が本当に死神になってしまったみたいだ。
もし僕の姿が両親に似ていたら……。
もし事実が広まっていたら……。
もし二人の子どもが僕じゃなかったら……。
次々に架空の世界が現れる。その世界では両親が笑っている。どんな世界でも、今僕が過ごしているここよりずっとましだ。でもそんな世界を望んでも、事実を認めさせるような重い言葉が自分の声で返ってくる。
「そんな世界はあり得ない」
「いい加減諦めろ」
そうして僕が現実を認めるまで、解決策を見つけ出すまでしばらくかかった。
「何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ」
鏡の前で口角を上げる。違和感のあった表情は、目を細めることで自然な笑顔に近づいた。思い出すのは道に忘れ去られていた、ボロボロで薄汚れているのに楽しそうな笑顔を崩さない人形。僕もそんな存在になればいい。練習し続けた笑顔は、顔にぴたりと張り付いて崩れなくなった。
この解決策が正しいものなのか、もう判断も付きはしない。
刺さるような視線と耳障りな音が体に染み付いて離れない。学院の中で僕は、いつであってもどこであっても同じ環境下に晒された。逃げ場のないその場所は、これまでのどんな場所より厳しかった。ただの人形でさえも居てはならない場所だったようだ。
重い体を引きずってどうにか辿り着いた自分の部屋に、僕の体は雪崩れ込んだ。そこは誰もいない、僕だけの世界。常に力を入れていた頬が痙攣するように震えている。胸を叩き続けていた心臓の音は聞こえず、空気が自然と体に澄み渡っていく。ゆっくりと降ろされる瞼によって、僕の視界は闇へ包まれていく。とても心地の良い、温かい闇に。
「アマイネェ」
コロコロとした子供の声が聞こえてきた。
「トローリ、トロトロ。アマイハ、スキ!」
闇の中でふわふわと浮かぶ僕の耳元で、弾むような声は楽しそうだ。
「オネガイハナニカナァ? カナエテアゲルカラ、アマイヲチョーダイ」
子供の声はまたコロコロと笑って、髪の中を柔らかな風が通った。
「アナタノオネガイハナァニ?」
内側からこみ上げる言葉が、僕の喉をこじ開けた。
「僕の願いは……、普通の姿で普通の人として生きること。お母さんとお父さんによく似た姿で、普通の幸せな生活を普通に遅れるように」
無意識のうちに答えていた。ずっと昔に隠してしまった、忘れようと努力してきた本心だった。
「イイヨォ。イッパイ、アマイヲチョーダイネ」
いつの間に眠っていたのだろうか。学院から帰ったそのままの姿で、僕は床に寝ころんでいた。疲れは全く取れていない。まだ体を動かす気力もなくて、そのままの体勢で固まっていると自然と僕の思考は先程の夢のことへ向かっていった。
忘れようと努力すればするほどに、僕の願いは隠せなくなるくらい大きく成長していた。叶うはずがないと最初から諦めきっていたはずなのに、心の底ではそれに縋っていただなんて。もう笑うしかなかった。
自分がこれほどどうしようもない人間だと知りたくもなかった。こんな人間だから、お母さんとお父さんまで巻き込んでしまうし、周りの状況で勝手に傷ついてしまう。そんな自分が大っ嫌いだったが、自らを恨むことがどれほど無意味で下らないことかは身に染みている。もう何度目かも分からない答えなど見つかるはずのない問答も、もはや他人事のように感じた。心を動かす必要なんてない。また静かに、時が過ぎるのを待つだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます