叩かれた扉は少し隙間が開いていた
第1話 雲の多い日の朝
「おはよう」
朝食を準備する楽しそうな音と香りが、階段を上って僕の部屋の前まで届いていた。いつも以上に張り切るお母さんの表情は柔らかく、肩ひじを立てて舟をこいでいるお父さんの顔色はいつもより明るかった。
「はいどうぞ。今日は忙しいからちゃちゃっと食べちゃいましょう」
眠りから戻ってこないお父さんをお母さんが揺り起こして、席に着いた僕たちは食事への祈りの言葉を告げた。食卓に三人が揃うのはいつぶりだろうか。
「サイラスももう六歳か。大きくなったな」
「そうよ。いつの間にかこんなに大きくなっちゃって」
今日は僕の六歳の誕生日。この世界で、六歳を迎えた子供は学院に入学し、一人の人間として世界を学ぶ権利を得る。そんな特別な日だから、週末の遅い時間にしか帰ってこないお父さんも朝から一緒にいてくれる。だけど本心を言えば、僕のために時間を作るくらいなら、それをもっと自分の休息のために使ってほしい。そんな言葉は、到底僕の口から言うことはできないけれど。
朝食を終えて二階に上がった僕は、昔から変わらない自分の部屋を見渡した。荷物何て数えるほどしかない。この一年間で増えたものといえば、学院へ通うために必要な道具くらい。
制服に腕を通しても、布はまだ硬くて余った肩や袖が僕の身の丈を主張する。僕に入学の権利があるのかと。鏡の向こう側には見慣れない人形が立っていた。
「何も見えない、聞こえない。ただの笑った人形だ」
僕は鏡へと手を伸ばし、その人形の手に触れていつもの合言葉を告げる。口角を上げて目を少し細める。寸分の狂いもなく、その人形は笑みを浮かべた。その闇を湛えた瞳に光がさすことはないだろう。なぜなら人形がいるのは真っ暗闇の世界の中で、その足が導くのはこの世界の理に沿った正しい道だから。
玄関に向かった僕を待っていたのは、どこか表情に陰のある両親だった。
十月。木の葉が舞い、頬を撫でる風は冷たい。通りを歩く人もコートを体に巻き付け、足早に去っていく。誰もが僕の姿を視界から外していった。
巨大な湖に寄り添うように位置するこの街の、中心地にある教会。石組みの壁の白さは周囲の景色に溶け込むことがなく、その際立った存在が本来あるはずの歴史を忘れさせた。手入れの行き届いた庭では生い茂る植物が実を宿し、その陰に多くの生き物を隠す。サワサワと葉を揺らすのはその生き物か風の悪戯か。
「さあ、行こうか」
足を進める両親の後に付き従って、僕はその教会の扉の前に立った。お父さんが扉に手をかけて、ゆっくりと開かれたその隙間から眩い光が溢れ出す。教会の中は外壁以上に真っ白で、天から注がれるような光を何重にも増幅させて閉じ込める。その部屋の広さは、眩む視界では推し量ることなどできない。
「ほら。今日はあなたが主役なのよ」
お母さんにそっと背中を押された。一歩前に進むごとに足音がこだまし、そこに姿のない人間を何人も生み出した。耳に届いた息遣いは僕自身のものだろうか。
だんだんと光に慣れていく視界は、この空間の非日常性をより鮮明に描き出していく。ずらりと並ぶ長椅子の列も、その間の一本道が導く先にある教壇も、そこにそびえる巨大な何かも、その白さを誇っているかのように光を纏う。この空間にあるもの全て、鼓膜を震わせる音までもがその光のエネルギーとして取り込まれているかのようだった。
これから何が起こるのだろうか。僕が次の一歩を踏み出した瞬間、それは起こった。
「お待ちしておりました」
足元から舞い上がる風の渦が僕の体をそっと包む。それはゆりかごのような心地よさの中に、全てを握られているかような恐怖を隠していた。
「初めまして、学院の理事をしている者です。サイラス=アシュレイ様ですね」
風がぴたりと止まった。瞬きの間に現れたのは黒いフードを目深に被った青年。フードの中の異様な暗さは底のない沼を覗いているよう。ただその声色から、青年が不気味な笑みを浮かべているような気がした。
風の賢者――
この特徴的な人物を、誰もがそう呼んでいた。
賢者とは、世界を動かし守り続ける人物のこと。彼らは常に世界を見通し、未来を動かすため世界に干渉する。その存在はこの世界に生きる全ての人間のあこがれであり、安寧であり、そして平和を体現する象徴であった。
今この世界に、賢者と呼ばれる人物は三人。目の前に立つ風の賢者の他に、炎の賢者、謎の賢者がいる。かつての大火の折に現れた炎の賢者は、その炎の中での凛々しい立ち姿からそう呼ばれた。歴代最年少で賢者となった謎の賢者は人前に姿を現さず、多くの謎を秘めていることから名付けられた。
そんな中、最も親しまれているのが風の賢者だった。重要な手続きの場に現れる賢者は決まって彼で、またそんな行事関係なしに彼はよく人前に現れては世間話をするらしい。その様子は気ままに漂う風のようだと、いつの間にか風の賢者だと呼ばれるようになった。
「六歳の誕生日おめでとうございます」
羽衣のように薄くて軽い声。その言葉は僕の腑の途中で引っかかって不安定に揺れる。目の前にいるはずの風の賢者の姿も曖昧に見えて、軽くふいた風にかき消されてしまいそうに感じた。
住む世界が違う――
風の賢者が小さく笑った。気味の悪い空虚な気配はどんどん歪なものとなり、フードの下の闇は一段と濃くなっていったように感じる。
「これから入学手続きと学院の案内をさせていただきます」
そう告げて風の賢者は動いた。彼が触れた空間が揺らいでいく。景色が歪み、混沌とした色彩が渦巻く。その大半が茶色に覆われて、歪みが正された後には一枚の扉が出現していた。
「大丈夫かい?」
僕はその言葉に何も返すことができなかった。彼がどんな魔術を使ったのか。魔術は人智の及ぶ範囲の現象しか引き起こすことができないはずだ。だとすればこの現象も理論立ててあるはず。だがそんなこと、到底想像できない。世界の理を捻じ曲げているかのような現象に、いったいどんな理論があるというのだろうか。このような力、僕には脅威でしかない。
「うっ」
扉を見つめていた僕の肩に、突如として手が添えられた。振り返れば扉の横にいたはずの風の賢者がそこにいて、僕の顔をぐっとのぞき込んできた。フードの中の真っ暗闇に、紫色の妖しい光が揺れる。
僕は彼から目を逸らして、扉へと一歩踏み出した。フードの中を、あの光を見てはいけないと感じたから。足の震えが止まらない。前も後ろも、それが明るい世界ではないとしても、僕に立ち止まる選択肢は用意されていない。
低いテーブルに質の良さそうなソファ、壁を覆うように並んだ棚とそこから溢れて積み上がる本の山、奥の年季の入った机に、雪崩を起こした書類の数々。風の賢者によって開かれた扉の先は、想像以上に小ぢんまりとした部屋だった。
「さあ、こちらへ。まずは入学手続きからだ」
風の賢者に勧められ、僕は沈み込むようにソファに腰を下ろした。そして彼の空気を撫でるような仕草で、雪崩れた紙の束から抜き取られた一枚が僕の前に用意される。
一、学生側は学院の生徒としての自覚を持ち、良識のある行動を心掛ける。
二、学院側は学生の学習の場を提供し、その身の安全を保障する。
以上の契約に同意し、学院の生徒となることを了承する。
三行だけの文字列が、その紙の白さを際立たせる。
「サインはこちらに」
彼が指差したのはその何もない空白。その手からはいつの間にか万年筆が差し出されていて、僕はただ彼の思うままにそれを受け取るしかなかった。
手が震える。それを必死に隠しながらペンを走らせようとするも、それはノロノロとした歩みで紙に汚れを広げていくのみ。寄り道の多くなった僕の名前は、人に見せられるものではなかった。
「では」
風の賢者の指が僕の名前を撫でる。インクに含まれていた細やかで慎ましい光の粒々は、その指先に命を与えられたかのように煌めきを増して、一瞬のうちに赤く燃え上がった。僕の名前は、書類に焼き印として刻まれた。
風の賢者がそれを手に取ると、床に積まれていた本の一冊を取り上げてその内に挟み込んだ。そうしてコートにふわりと風を含むように振り返れば、その手には既に本がなく、ただ両腕を大きく広げてこちらへ一歩近づいた。
「次は学院をご案内いたします」
一息ついて、聞こえてきたのは歌だった。そしてその声に呼応するように、小さな光の球体が次々と現れた。緩やかに旋律が変化していけば、球体から線が伸びて全てと結ばれ、気づけば網のような光が部屋を満たしていた。
「魔術……」
歌声は風の賢者のものだった。歌声を式として組み込まれた魔術が存在することは知っている。彼が扱う理の知れない魔術でも、これはずっと温かい。
『さあ、目を開けて』
光が部屋から影を消し去った後、彼の言葉が聞こえた。その言葉に従って目を開ければ、空中に浮かぶ僕の足元で制服を着た子どもたちが騒いでいた。
『学院はこの世界を動かすための様々な役割を担っています。ここは学院の中でも教育を担う部門。これからサイラス様が所属する場所です』
遠くに彼の歌声を聞きながら、僕の耳は同時に彼の説明を聞き取った。それは子どもたちの楽しそうな声にもかき消されず、それよりもずっと近い場所で響いているように感じた。
『学院はこの世界のどこにでもあり、どこにもありません。はるか昔、初代の賢者が仲間と共にいくつもの空間を接ぎ合わせることで生み出されました。そして必要に応じて年々その規模は大きくなっていき、今では人々の生活に必要なシステムのほとんどを含んでいます』
それはこの世界で生きている人であれば誰でも知っていることだった。僕より小さな子どもでさえ、一度は足を踏み入れているはずだ。
『ちょうど授業が始まるようですね』
廊下に響く鐘の音を合図に、子供たちは等間隔に並ぶ扉に吸い込まれていった。先ほどまでの騒々しさが嘘のように、静寂があたりに満ちる。先ほどまでの活気に見放されたように感じてバツが悪く思うのは、僕の思い上がりだろうか。
『最低限必要な授業についての日程はこちらで指定させていただきますが、それ以外は自由に決めていただいて結構です。ただ個人の意見ですが、どの授業も生きていく中でためになるものだと、私は自負しております』
彼がスッと壁を通り抜ける姿に引っ張られて、僕もその先の景色を見た。想像以上に広い教室の中で、七割ほどの席を埋める子どもたちのほとんどが、その視線の先に立つ先生の話をじっと聞いていた。僕もこの教室のどこかの席で授業を受けることになるのだろうか。
『授業の細かな内容は後ほどお渡しする書類を確認されてください。案内はこれで終わりになりますが、何か質問はございますか?』
その言葉に僕は首を横に振った。正直に言えばこれからの生活が形の無い不透明な何かに思えて、分からないことが分からず、ただ質問することが出来なかっただけ。それに僕のこれからの人生はここで教えられたものとはまた違うものになると分かっているから、聞くだけ聞いて未来の生活に頑丈な形を与えることは、無駄で自虐的な行為でしかなかった。
歌がフィナーレへと向かう。僕たちの周りにいくつもの光る球体が現れて、その眩い光が教室の景色を霞ませる。そして歌が終われば光も消え去り、僕たちは最初に訪れた小ぢんまりとした部屋に立っていた。
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