リンジーに光あれ
だら
リンジーに光あれ
愛しのリンジーがやってきた。私はすぐに声をかけた。彼はいそいそと隣の席に座った。
「ごめん、教授に捕まって遅れちゃった」
「リンジーは人気者だものね」
恋人のリンジーはまさに完璧だ。頭が良く、運動ができ、芸術面にも優れる。料理も出来て、なにかと要領がいい。変な話、性の相性もいい。少し前はネガティブすぎる面があったのだが、最近はそれもなくなり、無垢な少年のように快活になった。私は、この子供っぽいリンジーも好きだった。私の憧れる純潔の聖人像に近かったからだ。
「そうだ。なかなか決まらなくて言えなかったんだけど、今日で僕は消えるから、もう会えないんだ」
それはあまりに唐突で、私はつい聞き返していた。彼から返ってきた一字一句違わない答えに、ショックを通り越して変に冷静だった。リアリティが感じられなかったからかもしれない。
「どうして。一体何があったの」
「うん。正直、ラナを不安にさせたくないから、あまり言いたくはないんだけど……」
視線を彷徨わせる彼に、少し焦った。何か私に大きな隠しごとをしていたのだという事態だけなら、現実味もあった。
リンジーは目を閉じて項垂れた。思案しているのだ。考え事をする時はいつもこうなのだ。眠っているような、気絶しているような。こうなったらリンジーには何を言っても聞こえない。他人はひたすら待つのみだ。完璧なリンジーの唯一おかしな行動とも言えるが、私にとっては神秘の一つだ。
五分、十分と経ってから、リンジーは目を開けた。
「わかった。今日、一緒に病院に来てほしい。そしたらそこで説明できると思う」
曖昧なことを言うリンジーに多少の不満はあったが、とにかく私は承諾した。大学の講義が全て終わると、リンジーは地域で最も大きい病院に私を連れていった。遠方からも患者が来るような有名な病院だ。そのため、ちょっとした病気や怪我じゃ診てもらえず、私も訪れたことはない。
リンジーは受付を済ますと、すぐに診察室へと向かった。その慣れた様子に、自然と鼓動が速くなった。リンジーが入ったのは脳神経外科だった。
「先生、お久しぶりです」
「やぁ、リンジー。今日はまた一歩進むそうだね」
リンジーと医者の先生は親しげに握手を交わした。私は訳が分からず入口でつっ立ったままだ。
「先生、今日は僕の恋人をつれてきました。本当のことを伝えようと思って」
「それは皆で決めたことなんだね。もちろんいいさ。でも、念のために安全装置は起動させるからね」
「いえ、それも、彼女の方だけ外してほしいんです。みんなのためにも」
「それも、皆で決めたことだね。分かった。なら何も言わんよ。さぁ、地下に行こうか」
「ありがとうございます。ラナ、こっちだよ」
リンジーは嬉しそうに私の手を引いた。
「ねぇ、なんなの」
「大丈夫、すぐ分かるから」
私は導かれるまま、彼について行くしかなかった。病院の奥の奥にある重い扉をくぐって、地下の階段を降りる。冷たい空気に震えながら進む先に、温度の無い白い壁が待っていた。すぐ右手にガラスの大きな窓があって、中の部屋には二つの椅子と、厳めしい機械が並んでいた。ガラスのこちら側で先生が待っていて、中へと入る扉を開けてくれた。
「先生、ラナに説明をお願いできますか」
「あぁ、分かった」
そう言うと先生はまず私を片方の椅子に座らせた。私は威圧感のある機械を見て、「帰ります」と叫びたくなるのを堪えた。それを察したのか、先生はにっこり笑って「大丈夫」と言った。
「これは、向こうの椅子に座った人の頭の中に入りこむ機械だよ。この椅子は入る専用だ」
視界の端で、リンジーが隣の椅子に座った。
「リンジーの頼みでね、君から頭の中のリンジーに触れることはできる。逆はできないけどね。それと、この機械を使っている間、僕がリンジーの頭の中の様子を見る方法は無い。だからと言って、あんまり激しい事はしちゃダメだよ」
先生は「なんてね」とおどけてみせた。ほとんど頭に入って来なかった。
「あの、これで何を教えるつもりですか」
「君はリンジーをどう思う? 完璧すぎるとは思わないか?」
どきりとした。瞬間、ヘルメットのような機械を被せられた。真っ暗な中、外の音がぐわんぐわんと反響して聞こえる。
「そのからくりを見せてあげるんだよ」
がしゃん、と音がして、意識が飛ぶ。暗かったはずの世界が白く輝いて明滅する。気付くと私は、確かに白だけでできた空間にいた。
「ラナ」
呼ばれて振り向くと、リンジーと他に六人の男女がテーブルを囲んで座っていた。
「リンジー、これは何? この人たちは?」
「うん、見ての通り、僕の中の別の人格だよ」
さらりと放たれた真実があまりに重くて、私は受け止めきれなかった。見ればがっちりとした体格の男や、清楚そうな女がいて、皆こちらを見ていた。それぞれ顔が違っていて、人格というより親戚という風に見える。でも、これがリンジーの頭の中ならば、確かに別の人格なのだろう。
「リンジーは多重人格なのね?」
「そうなるね」
困惑する私に、一人の男が近づいて手を差し出した。小ざっぱりとした好青年だ。
「はじめまして、というのは変かな。俺はロニー。ここをまとめているんだ」
「ロニー? 私、あなたに会ったことがあるのね?」
私はロニーの手を取って握手をした。彼は困ったように笑った。
「まあね。皆一度は会ったことがあるはずだよ」
いつのまにかリンジーは座り込んで地面(白い床を地面と言っていいのか分からないけど)に落書きをしていた。
「最近では、主人格のリンジーに変わって、俺が表の顔になっていることの方が多い」
性質の悪い冗談としか思えなかった。気持ち悪さすら覚えた。なんせ、いつものリンジーと雰囲気が最も近いのは、七人の中では彼だった。そこで私ははっとした。
「ねぇ、リンジーが消えるってどういうこと」
「うん。今日、リンジーという人格を殺すのさ」
私は驚いて思わずロニーの肩を掴んでいた。ぱくぱくと口を動かすが、何も言葉が出ない。掴んだ手はしぶしぶ引き戻すほかなかった。
「ごめん、驚くよね。でも、俺達は人格を絞らなくちゃいけないんだ。それが、この病院でやっている治療だよ」
「昔、同じように殺された人格がいたんだぜ」
金髪の、軽薄そうな男が口をはさんだ。
「うじうじと暗いだけで使えない奴だった。俺達がリンジーとして、人として生きるためには必要のない人格だったのさ」
男はへらへらと笑った。「モーガン」とロニーが低い声で咎めると、素直に笑みを消した。
「誤解の無いように言っておくけど、俺達は互いの良い所を吸収し合って、一つの人格を作ろうとしているんだ。悪い所を除くんじゃない。そして、リンジーの良い所は俺がコピーした。だからもう俺達が普通の人間として生きるためには、リンジーは消す必要があるんだ」
「でも、リンジーの体は、元々リンジーの物よ。主人格を殺すなんて、そんなのが治療なわけがない」
ロニーはリンジーを見た。リンジーは自分の指をいじくって、遊んでいる。皆もまた、それぞれ異なる表情でリンジーを見ていた。自分の子供を見るような目。邪魔な物を見るような目。憐れむような目。慈しむような目。それに気付いたリンジーは、私の方を向いて照れくさそうに笑った。
「リンジーは、幼すぎる。肉体的にはもうすぐ社会に出る齢なのに、それをこの子に押し付けるのは酷だ。それは、ラナだって気付いただろう」
私は何が何やら分からなかった。白い世界で、上下も分からない。この子供が一体誰なのか、分からなかった。
「悪いけど、僕たちは君に止めてもらいたいわけじゃない。こういう事があって、リンジーが無意味に消えるわけじゃないって知ってもらいたいだけなんだ。だから、邪魔はしないでくれよ」
長い髪を一つに縛った、眼鏡の男がそう言った。
リンジーが、不安そうに私を見た。
「みんな、ラナのことが好きなんだよ。だから、僕らを一つにして、普通になって、ラナを安心させてあげたいだけなんだ」
リンジーは座り込んだまま、縋るような目で私を見た。リンジーの美しい心は、ここにあるのだ。リンジーは私を見ているのだ。
「リンジーは殺させない。もっと良い方法があるはずよ。それに、彼にはたくさん良い所があるの」
ロニーは寂しそうに私を見た。無駄だと分かっていて、それでも誠実たろうとしているのだろう。
「一応、君の言うリンジーの良い所を聞こう」
「リンジーは優しいわ。誰にでも好かれるの」
「そうだろうね。彼は庇護欲を掻き立てる」
「頭も良いの。ラテン語はいつも教えてもらってる」
髪の短い、スレンダーな女が控えめに手を挙げた。
「それ、アタシね。勉強はアタシの分野なの。授業とかはだいたいアタシが出ているわ」
力が抜けていくようだった。リンジーが「いつもありがとう、ジェナ」と言った。「どういたしまして」と女も笑って返した。
「そうよ、運動もできるの」
がっちりとした体格の男が手を挙げた。
「それは俺だ。ついでに、重い物を持つ時も俺」
私は首を緩く横に振った。認められなかった。
「芸術のセンスもあるわ。絵も歌も上手」
「それは僕かな。音楽の趣味はラナとも合うから、趣味の話は僕の担当」
先ほどの髪の長い男がにっこり笑った。
「料理も、上手なの」
清楚そうな女がおずおずと手を挙げた。
「それ、たぶん私です。お料理とか、家事全般は私の仕事なので」
今までのリンジーがどんどん崩れていく。ロニーが悲しそうに目を伏せた。そうだ。ロニーだって、社交の場をいつも担当しているのだ。
いつものリンジーすら奪われた私は、立っているのがやっとだった。全て本当のリンジーで、同時に全て、リンジーではなかった。これでは、私はとんだ勘違い女だ。
ふと、もう一人の存在に気付いた。今の話の中で、名乗り出さなかった一人がいた。それは、あの金髪のモーガンという男だった。
「あなたは?」
男は見た目に似合わず、遠慮がちな苦笑いをした。「聞かない方がいい」とでも言いたげだったが、私が黙っていると重い口を開いた。
「俺は、夜の仕事だよ。ガキは女の抱き方を知らないからな」
白い世界が、私の頭の中にまで浸透していくようだった。私は無邪気に笑うリンジーを見下ろした。全て無くなったリンジーを見た。優等生で、誰からも好かれて、私の自慢だった。全てまやかしだ。今のリンジーには何もない。この空っぽな笑みの他には何も、何もないのだ。
「分かっただろう。俺達だって、考え抜いたんだ」
ロニーの言葉にリンジーは立ち上がって、彼の横に立った。そしてもう一度笑った。
「僕は大丈夫。だって、みんなラナが大好きだからね。そこは同じだもの。それが分かっているから、僕は消えたって構わないよ」
リンジーは皆の輪の中に入った。文字通り、輪の中心だ。さっきまで皆が囲んでいたテーブルも、座っていた椅子も、全て消えていた。ロニーは輪の一部に加わった。
皆、どこからともなくナイフを取り出した。彼らの頭の中だ。何ができても不思議ではないのだろう。ナイフだって、銃だって、縄だって、火だって出てくるのだろう。
六人は呪文を唱えた。
「リンジーに光あれ」
リンジーがにっこりと、こちらを見ていた。
私は咄嗟に近くの女に飛びかかっていた。ジェナと呼ばれていた女だ。私は彼女が驚いている一瞬のうちにナイフを奪い取り、叫ぶ前にあごの下を突き刺した。
血は出なかった。それでも、ジェナはばたりと倒れて動かなくなった。血が出ないというのは、私にとって計算外だった。それが殺人ではないという証になって、私の背中を押した。
ざわめく残りに振り返る。とにかく、まずは力の弱そうな女を片付けようと思った。私はもう一人の女に近付いた。彼女は後退りした。
「やめて、ラナ。これはリンジーの為で、あなたの為でもあるのよ」
彼女の声は遠くから聞こえてくるみたいで、聞きづらい。なんだかふわふわとした気分で、私は彼女に詰め寄った。
「ラナ、お願いよ。私たち、一緒にご飯食べたよね。私の料理を美味しいって言ってくれて、それで、私嬉しくって……」
彼女の言う事は要領を得ず、よく分からない。
「知らないわ」とだけ言って、ジェナの時と同様にあごの下を刺した。
面白いことに、ここでは私からしか接触ができないらしい。ナイフすら、私の腕をすり抜けた。リンジーの主治医が機械を私に被せる時に何か言っていた気がするが、これのことのようだ。それが分かれば男たちも敵ではなかった。一人一人、確実に刺した。誰も私に触れることなく倒れていった。皆、倒れる前に、私とリンジーの思い出を語りたがった。
気付けば、残っていたのはリンジーとロニーだけだった。ロニーは泣いていた。
「あぁ、ラナ。君は何てことを」
ロニーは色も無く倒れた仲間を見て泣きじゃくった。座り込んで、ただただ悲しんでいた。少し、リンジーが被りそうになった。すんでの所で、ロニーの頭から背中をナイフで一閃した。ロニーは糸が切れたみたいに、ばったりと倒れた。
呆けていたリンジーは、子犬のような声でぼんやりと「ラナ」と呼んだ。
「どうして殺してしまったの。僕だけで良かったのに」
ナイフを放り投げて、私はいつもよりも小さいリンジーを抱きしめた。
「私にはあなただけで良かったからよ、リンジー」
私はなんでもできる彼が好きだった。でも、それが別の人格で、本当の彼が何もできない子供だったからといって、愛しのリンジーを見殺すような薄情な人間になるのが、何よりも恐ろしかった。愛は貫くものなのだ。リンジーが、見ていたのだから、私はこの正義を貫く他ないのだ。
リンジーはもぞもぞと私の腕の中で動いて、倒れた自分たちを見た。
「みんな、ラナが大好きだったのに」
鈴のような切ない声で、そう呟く。
「ラナをここに連れてくる事に、みんなすごく喜んでたんだ。やっと好きな人に、本当の自分を見てもらえるんだって。みんな、本当の姿でラナと触れあいたかったんだ。あのモーガンですら、嬉しそうに笑っていたんだよ」
リンジーの丸い目がこちらを見る。縛りあげられていくような、それでいて、溶けだすような瞳だ。
ねぇ、とリンジーが言う。
「みんなを抱きしめてあげて」
どきりとした。それ自体はなんでもない事なのに、リンジーの口から言われたことに驚いた。
「みんな、僕の一部だったんだ」
ロニーを見つめた。眠っているようにも見えた。リンジーを解放して、ロニーの傍にしゃがみこんだ。ガラスを拾うみたいにして、ロニーを抱きしめた。
リンジーが笑う。本当に、嬉しそうに。本当に、本当に幸せそうに笑う。
胸の中でロニーが溶けていくのを感じた。リンジーに一つ無くなったのを感じた。
一人一人、拾い集めるように抱きしめた。その度にリンジーは笑って、一人ずつ名前を教えてくれた。全て溶けだした後、自分が何をしていたのか分からなくなった。私は一体誰の何を愛していたのだろう。
「リンジーは、寂しい?」
呆然と訊ねると、リンジーは一際淡く笑んだ。
白い世界が崩れた。黒い世界が広がった。がしゃんと音がして、目の前を覆っていた機械が外された。
「どうだった?」
先生のいたずらっぽい笑みが見えた。何も知らない笑みだ。もしかしたら、全部ドッキリなのかもしれないと思った。
私はふらふらとリンジーに近寄って、私と同じように被せられている機械を外した。
リンジーが目を瞬かせる。私は、その目を見た。生まれたての子供のような目をしている。愛されている子犬のような目をしている。絵画の中の天使のような目をしている。
私は「リンジー」と声をかけた。リンジーは「うー」と唸って、私の頬に手を添えた。恋人と、子供と、祝福と、十字架を一度に失って、また新しく背負ったような気がした。
リンジーが「キスをして」と甘えた声を出した。トマトのように赤いその頬に、キスをした。横目に映る先生の顔が真っ青になった。
これをずっと背負っていくのだと知って、私は顔を上げられなくなる。
所詮、私にリンジーのような器は無かったのだ。リンジーの瞳をもう一度見る気にはなれなくて、目を固く閉じたまま彼を抱きしめた。ぐわんぐわんと音の響く暗闇で、私は泣きじゃくった。また白い世界がやってきて、七人のリンジーが現れるまで、私は彼の重みに耐えるのだ。
リンジーに光あれ だら @hujimitu
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