下げたい
賢人は未成年ふたりをバーに連れて行った。深甚なことを更に深く話せる場所を賢人はそこしか知らなかった。
神田の、地名を冠したバー。
賢人が頼んだのはやはり人名を冠したモルトウィスキーのロック。グラスとほぼ同じ直径の、ピックで柔らかで美しい球体に削られた氷を磁力の反発で回るような滑らかさで円周させた。
眞守は特注のアイスココア、翡翠はジントニック風のノンアルコールだった。
眞守がテーブルに肘をついて重ねた手のひらの上に乗せたこましゃくれた小学生そのままの姿勢で賢人と翡翠に講義した。
「神の絵を滅ぼそうとしてるのは悪鬼神とお二人が呼んでる概念ですよね、翡翠ちゃん」
「誰が下の名で呼んでいいって言った。誰がちゃんづけでいいって言った」
「翡翠。呼ばせてやれ」
「けっ」
常軌を逸したリアクションは翡翠の特徴のひとつではあるが今夜の翡翠のそれはさらに上のレベルをいく悪意を込めたものだった。露骨に眞守のような若年性エリートとはソリを合わせない翡翠が、らしくもある。
「翡翠ちゃん。悪鬼神を見たことは」
「母方の祖母から見ると死ぬって言われてたから、黒い影みたいなのの気配を感じても見ないようにしてた」
「正解です。悪鬼神は不可視光線を放つエネルギー体ですから」
「殺すぞ、ガキ」
「ガキの翡翠ちゃんからそんなこと言われたくないな」
「眞守。よく分からないが眞守の研究室ではそのエネルギー体を実測したって言うんだな」
「はい、賢人さん。冷静ですね。さすが元社会人」
「元、じゃない。現役だ」
「でもバイトでしょ?」
「オマエ、死ね。穀潰しの妄想研究者もどきが」
「いい。翡翠、言わせておけ」
「さて、賢人さん、翡翠ちゃん。そのエネルギー体はブラックホールと同質でした。なので僕の研究もおそらくノーベル賞級でしょう」
「ブラックホール?」
「つまり釈迦の悟りを遮ろうとしたらそれほどの抵抗不可能なエネルギーを持ってしないと無理だったということでしょう」
「待て、眞守。そもそもお前は神だとか仏だとかの存在を信じているのか」
「だって、人でしょう? 結局は」
「眞守! オマエ! ぶっ殺す!」
翡翠がジントニックもどきのグラスを床に叩きつけて立ち上がり眞守を怒鳴りつけるとバーテンダーが自らカウンターから出てきて翡翠に対し当店の雰囲気がお気に召さず申し訳ありませんでした氷水をお渡ししますので一度心をお鎮めくださいとまるで女神を畏れる下僕のような神対応をしたので翡翠はバーテンダーに免じて眞守をボス猿の時のようにぶちのめすことは留保した。
だが賢人は執拗に続けた。
「俺は人間の話などしてない。神や仏を信じるのか、と訊いている」
「賢人さんは信じてるんですか」
質問に質問で答える愚行を賢人は腹の底から嫌悪しながらそれでも眞守に対して駄々をこねる幼稚園児をなだめるような口調でただし見捨てるような表情で告げた。
「神の絵が実在してる」
翡翠は賢人の答えに満足そうに微笑みバーテンダーが差し入れてくれた氷水と賢人が追加で注文してくれたライムを絞ったノンアルコールビールを細い喉を鳴らして飲み干した。
「でもブラックホールは」
「悪鬼神だろ」
「失礼、翡翠ちゃん。悪鬼神は神の絵を滅ぼそうとしてる。釈迦の悟りに匹敵する奇跡が起こることを察知してる」
「奇跡って」
「賢人さんは薄々気づいてるんでしょう」
「俺だけじゃない。翡翠も気づいてる」
「神の子、でしょ。ははっ」
「なあんだ。つまんないですね。僕がすべての種明かしをしたかったのに」
「もう一つ訊く。眞守、処女のまま妊娠し出産することは本当に可能なのか?」
「神が見えないままに妊娠するための行為をすればできるでしょう」
「本気で言ってるのか」
「賢人。眞守はまがいものだけどこれだけは多分合ってるよ」
「翡翠ちゃん、素直ですね」
「うるさい。善神は行為抜きにわたしに種だけを授ける。将来実際に人間の誰かと結婚して性行して赤子を授かる時にその種が働いてその子が神の子として、神の胎児として臨月を迎え、そしてわたしは出産する」
「その相手が僕だといいんですけどね」
「黙れガキ。相手は賢人だ」
「・・・ほんとか?」
「言ったでしょ、伴侶だって」
「そういうこと抜きのパートナーだと思ってた」
「ううん。賢人がわたしの初めてで唯一の相手、のはず。そしてね。悪鬼神は実体としてわたしを犯す。善神の種を授かる前に」
「やらしいですね、翡翠ちゃん。ちょっとだけそれを期待してたりして」
「やかましい、黙れクソガキ。ただね、賢人。嫌だけど眞守の手助けは多分必要だよ」
「どうして」
「こいつがブラックホール専門のまがい物だから」
「ひどいですよ翡翠ちゃん。将来のノーベル賞候補を捕まえて」
「やかましい。善神は日月を創り悪鬼神はブラックホールを創る。わたしの母方の祖母が本物の地獄を注入されて3×7=21日間の恐怖と苦痛に耐えた後のことを、そうわたしに教えてくれた。賢人、聞いて」
「ああ」
「神様の絵は、お日さまを創る。地獄のお軸はお月さまを創る。ねえ、賢人」
翡翠は二杯目のライム入りノンアルコールビールを飲み干し、タン、とグラスをテーブルに置いて宣言した。
「絵師を探さなきゃ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます