さもしい

 青鬼。


 語感からは何か昔話のような長閑さを覚えるが賢人が見たものはおそらくは身長が3.5m〜4m、骨格は人間のものではなく骨組みが何本も多いように思え、四肢は長く筋肉は遅筋と速筋がまじりあって薄い皮膚の下にミチ、と張りつめており角は決して黄色ではなく薄いグレーがかった黒ずみで表面がざらっとしているようだった。髪は白髪と黒髪の中間で賢人がつぶやいていたようにブルーの光線、それは燃え盛るイメージを持っていた地獄の色彩の一面なのだろうか、青く照らされた結果の色彩だったのか。

 そして顔は、青みががかった灰色で死人のように見えた。だが死んでいるわけなどなく、亡者を片手で締め殺し、そのまま鋸で左右引き離す、ある意味人間を開きにするような感覚で賢人は目を逸らさずにというか逸らすことが許されないような状況で鬼が人間を鋸で両断かあるいは三枚におろすような作業をもう少しで見せつけられるところだった。翡翠は賢人を自分の素肌を晒した薄い胸板に埋めさせて強引になまの地獄から引き戻せたことがほとんど奇跡だと思っていた。翡翠の母方の祖母で極めて神秘的な力に満ちていたであろう、しかも地獄をまともに五感と第六感で知り得たそれを絵師に鮮やかな顔料で軸に描かせたその巫女でさえ3×7=21日間嘔吐と嗚咽を繰り返したのだから賢人はあともう少しで発狂か狂い死にしているはずだった。


 翡翠は賢人と自分がどういうわけか強運の状態にあると確信していたが、運がいいことを持ってお人好しのように事態をあるがままにする気持ちを翡翠は持ち合わせていなかった。


「賢人。こっちから打って出ようか」

「俺は恐ろしい。霊魂どころの存在じゃないんだろう?」

「多分ね」

「推測とかできてるのか」

「神だと思う」

「絵の、天照皇大神宮か。日の女神か」

「ううん。そんないいもんじゃない」

「じゃあ」

「悪鬼神」

「なんだそれは。鬼か?」

「一般にはお釈迦さまが悟りを開こうとした時に邪魔をしようとした悪魔のことみたい」

「釈迦、か?」


 賢人は翡翠の口に上がった、仏教の始祖であるその人物の名前が、けれども神とまったく違和感なく結びつくように思えるのが自分でも不思議だった。


「わたしは実家が神社だし巫女だけどお釈迦様が一番凄まじいと思ってる」

「凄まじいってどういう表現だ」

「ジャータカ、っていってね。お釈迦様が流転輪廻するその前世の履歴を叙事詩にした芸術があるんだけどさ。お釈迦様がお布施をする様子が常軌を逸してるんだ」

「どんなふうに」

「自分の妻子を奴隷としてお布施したり」

「ほお」

「自らを餌食として鬼の口に飛び込んで悟りの言葉を得るんなら分かる。でも自分じゃない奥さんや子供を他人に物品のように譲り渡す感覚って『冷酷』なんじゃないかなあって」

「俺にもその感覚は分からんな」

「でもね。その釈迦の突き抜けた感覚を母方の祖母が教えてくれたんだ。わたしが小学校中学年の時。お軸を旅の絵師に依頼して出来上がった、地獄の業火や凍結の獄門の洞窟やリアルな青鬼や赤鬼や亡者どもの臓物と脊髄と骨と赤い血とが鮮やかな顔料で芸術作品のように描かれたその掛け軸のお披露目でわたしが見せてもらった時。母方の祖母は絵解きしてひとつひとつの地獄を直接わたしにねじ込んでもくれた」

「掛け軸は今どこに」

「行方知れずだよ」

「え」

「母方の祖母の神社は祖父が宮司として格は高いけど誰も跡を継がなかった。燃えたのと同じだよね」

「神を捨てたのか」

「そうだね」


 賢人は燃すよりも恐ろしい所業だと感じた。


「掛け軸は多分絵師が持って、今も旅してる」


 神を捨てる。


 普通の民家の一般人が舅や姑や実の親どもを捨てて自堕落に過ごすのと同じ感覚で。


 しかも神は明け方に氏子衆の家を分身して回って祝詞を上げ守り通しであるというのに。


 神の土地に無賃で住まわせて貰っている身であるのに。


 さもしい一族だ。


 翡翠の母方の実家も、翡翠の実家も、逆神というありえない名字の自分の家も。

 賢人はそう思った。





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