吐きたい
賢人は間断ない悪寒に震えていた。本当に膝が折れて立っていられない状態になっているのを翡翠がほとんど背負うような格好でマンションのエレベーターを登りドアを開けて鳥居をくぐった。気持ち悪いが吐きたくても吐けないと賢人は何度も訴えた。
誰かが
「賢人。見ちゃダメ聞いちゃダメにおっちゃダメ」
「無理だ。見えてしまう。多分身長は3mか下手したら4mあると思う」
「わたしの母方の祖母さえ地獄を見た後は3週21日間嘔吐と嗚咽が止まらなかった。わたしは神社が燃えた日の地獄を見た後15歳が終わる頃まで初潮が来なかった。賢人。悪いけど賢人だったら発狂するか死んでしまう」
「翡翠。こっちに近付いて来る」
翡翠は賢人の気を逸らそうとした。
祝詞を上げ賢人の頰を交互にぺちぺちと手の甲ではたいた。だが賢人は描写を続ける。
「あ。鋸を持った。誰かを抱え上げてる。暴れてるのを片手で首を締めた。いやだ。翡翠。どうすれば消えるんだこれは」
翡翠は賢人にキスをした。翡翠自身初めてのキスが九州での賢人とのそれだったのでどういう風にするかも分からずに口をつけたまま自分の舌を賢人の口腔に捻じ込んでみた。ただ、荒くて深い呼吸をしたい賢人にとってこれは最悪の対応だったようだ。
「く、苦しい!」
翡翠が唇を離した途端に、ぜは、と乱れた呼吸で酸素を取り込んだ。
翡翠は自分のワイシャツの両裾をクロスに握って力任せに左右へ引いた。ブッブッとボタンを全部跳ね飛ばせて胸を賢人の前に晒しそのまま賢人の鼻と口は呼吸のために開けたまま賢人のおでこから瞼を自分の薄い乳房の間に埋めさせた。
「ああ・・・多分血と髪の毛の焦げる匂いだ。もう、どうでもいい・・・」
賢人の呟きに合わせて翡翠は、きゅっ、と賢人の髪を撫でながら頭と目のあたりまで引きつけた。神の目の前で肌を当てていることに対し神の怒りを受けないかと一瞬翡翠は考えたが翡翠こそどうなっても構わないと思いそのまま賢人を抱き締めていた。
不意に賢人のこわばっていた四肢と顔の筋肉から力が抜け、連打するようだった呼吸が静かになって行った。
地獄が消えたようだった。
「賢人。大丈夫?」
「うん。匂いがした」
「焦げる匂い?」
「いや。母乳の匂い。胸の、甘い匂い」
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