堕ちたい
ベトナムへ向かうエコノミーの座席で観た映画はローマの休日だった。賢人は何度か観たことがあったが翡翠はなく、オードリー・ヘプバーンも知らなかった。ただ賢人にとってみれば監査にあたり隠し立てできないように責任者に強制的に休暇を取らせた結果のこのベトナム行きがローマの休日風だと感じ悦に入っていた。が、翡翠は客室への持ち込みが叶わなかった神の絵が荷物室で安全に輸送されているかどうかが気がかりで何度もCAにまだ着かないのかと尋ねていた。
「賢人はベトナムには?」
「トンボ帰りで来たことはあったな。冷凍食品用の海産物の調査で」
「エッチな所とか行った? ははっ」
「行かないさ。仕事だからな」
「遊びだったら?」
「翡翠が居るのに行く訳ないだろ」
ただ賢人はベトナムではない国のことを思い出していた。自分が『そういうこと』をすることは無かった。だが顧客や関係者たちが望む場合があり、そういう事をうまくアテンドできることも仕事の能力として捉えられてしまう風潮があり、そういうアテンドも結果的に行わなかった賢人は同僚たちからというよりは上司から『命令』に従わない変わり者という区分をされていたことは間違いなかった。翡翠はそんな賢人に意外な優しい素振りをしてみせた。
「わたしとエッチなことでもしてみる? ははっ」
結局賢人と翡翠は隠微なことをするわけでもなくごく一般的な観光客として振る舞った。
レストランでベトナム料理を食べ、賢人は若干のビールを飲み、市場へ行った。
神の絵を持って。
「見られてるな」
「画商と思われてたりして」
「いや思わんだろう」
本来二人はスーツケースが必要なほどの荷物もなかったのだが神の絵を括り付けて運ぶカート代わりにスーツケースを一基持って来ていた。行く店々でまるで自分たちが観光の対象であるかのような目で見られた。最初は絵を持っていることへの奇異の目だろうと思っていたのだがカフェでベトナムコーヒーを飲んでいると若い男たちに取り囲まれた。
そして明らかに現地民の彼らから違和感のない日本語で問いかけられた。
「それ、誰のコスプレ?」
「かわいい」
「ねえねえ。碧眼?」
翡翠が彼らを無視して賢人に訊いた。
「わたしのこと言ってるのかな?」
「そのようだ。ベトナムも日本のアニメが流行ってるらしいからな」
現地民の男子どもは一方的な質問を繰り返した。
「ねえねえ。決め台詞言ってみて」
「左目を見せて」
「そのお兄さんは使い魔?」
今度は賢人が翡翠に訊いた。
「なんだ使い魔って」
「知らない」
「ねえねえ、お姉さん」
「あーもうしつこいな。決め台詞? 言ってあげるよ。ほら」
翡翠が眼帯を取り、
「えーと。『リスカして、死ね!』」
数秒の沈黙があった。
「おお、クール!」
「カッコいい!」
「そのカラコン、日本で流行ってるの?」
「写真、撮らせて?」
請われて賢人、翡翠を交え、神の絵の前で記念撮影をした。
「やりすぎだろ」
ブルージーンに小さなロボットが『help!』とケージの中でセリフを言っている絵がプリントされた白のTシャツを着てデッキシューズをつっかけた翡翠は、ビ、とほどいた右手首の包帯の端を口にくわえたなんなのかよくわからないポーズを取っている。ベトナム人の少年たちも多分アニメのシチュエーションにありがちなのだろう、不思議なポーズを取った。賢人はスラックスのポケットに手を無造作に入れただけだった。
「もう拡散されてる」
翡翠がスマホでツイッターを確認すると神の絵とベトナム人少年たち、賢人と翡翠という不思議な縁で出会った者たちの写真があり、先ほどの誰かなのだろう英文で日本のアニメからそのまま出てきたような女の子と出会ったという内容が書かれていた。
ホテルではロビーでスーツケースに括り付けられた神の絵をフロントで見せて「OK?」と翡翠が訊くだけで問題なかった。賢人と翡翠はそのままボーイに案内されてツインの部屋へ。日本円に換算したら格安の宿泊料金なのだが伝統も格式もあるホテルで室内の照明も柔らかく神の絵を奉る十分なスペースもあった。
賢人は進展がないにしてもせめて翡翠と何か恋人同士のような精神的な触れ合いができないかという期待を抱いたがそのタイミングで翡翠が一言言った。
「霊魂がいる」
「どんな」
賢人も今となっては借金取りとしての正当性を身に染み込ませており、霊魂そのものに対して自分が引け目を感じるいわれはないと自覚していたので以前ほどの恐怖は無くなっていた。それよりも素性の知れない人間が翡翠と二人きりの部屋にいるという事実に嫌悪を抱き訊いた質問だったのだが、それに翡翠が答えた。
「ベトナム戦争で両親を目の前でアメリカ兵に殺されて自分もその後殺された男の子。ううん、赤ちゃんだね。それでね、両親は銃のグリップで撲殺されて、その男の子は苦しまないように心臓を銃で撃ち抜かれて死んだ。心臓撃ったって苦しまない訳ないのにね。ははっ」
翡翠は男の子の霊魂を少なくともこの場から居なくさせると言った。
「できるのか」
「多分。上手くいけば成仏っぽい状態にもできると思う」
「成仏っぽい状態?」
「あ。よく分かんないかな。完全に消えて無くならせる」
「死んでるものをか」
「だって死んだってこうしてずっと苦しんでる」
「どうやって」
「さあ。感覚的なモノ? それこそわたしのお腹にあった腫瘍を切り取ったみたいにさあ」
「呪文でも知ってるのか」
「ううん。ただ、こうじゃないかな、ってわたしが思ってるものをやってみる」
賢人にも見えた。
翡翠の弟が見えた時のように。
今夜はベトナムの、戦争のさ中、両親を目の前でライフルのグリップでアメリカ兵に撲殺されたが恐らくは事情を感知できないままに自らは銃で心臓を撃たれて即死したその赤子。
彼が神の絵の前に白いベビー服を着て仰向けになって赤子だというのに声を出さずに泣いている。足が細い。
そして襟と袖にフリルのついた純白のベビー服の左胸にはポイントのような赤い色が滲んで美しく広がり始めていた。
翡翠はTシャツを脱いだ。
何も着けていない上半身の薄い胸が露わになった。賢人が居ることもほったらかしにして。
赤子を抱き上げる。そのまま左手の指で右胸のやや先が沈んだような乳首を少し浮き上がらせるようにして赤子の無意識の唇に、ぷっ、とふくませた。
処女であり母乳など出るはずのない翡翠の右胸の突起に唇を立てて赤子はそれを、くっくっ、と何度か動かした。翡翠の右胸を吸う赤子の力なく蒼白だった頰にほんの一瞬だけ生きているような肌の乾きが見えた気がした。
もしかしたら最初から居なかったのではという自然さで赤子の姿は消えていた。
「賢人。おっぱいの味って覚えてる?」
「え。覚えていない」
「弟が生まれたばかりの頃に母親が胸が張ったら母乳を絞ってさ。ジップロックに冷凍保存してたのいつも見ててさ。弟への嫉妬もあってこっそり一袋だけ解凍して飲んだことあったんだ」
賢人は母乳をそう扱うことを知らなかったが自然なことだと素直に納得し、うん、と頷いた。
「ひとかけマグカップに入れてレンジであっためてさ。口にふくんだんだよね。そしたらさ」
翡翠の失明していない右目に液体が滲んでいた。
「甘いんだ。今まで飲んだどんな飲み物より。あったかくてさ。あ、あっためたからなんだけどさ。こんなのいつも飲んでて赤ん坊って糖尿病にならないのかな、ってぐらいの甘さでさ」
滲む液体を何度もの瞬きで賢人から隠そうとする翡翠を見て賢人はどうして自分が翡翠にどうしようもなく惹かれたのかの理由の一部がわかったような気がしていた。
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