舐めたい

 翡翠は摘出された悪性ではなかった腫瘍が妊娠数ヶ月の魚のような形をした胎児に極めて似ていたことを代役の執刀医から聞き、併せて本来の執刀医が得体のしれない翡翠の体の中から破片として放たれたおそらくはカルシウムの塊によって左目を失明寸前までの状態になったことが暗示的だと考えていた。

 その破片は執刀医の黒眼ではなく白眼に刺さったために失明は免れ、翡翠の体内から堕胎されるがごとき手順で切り取られた腫瘍はもはや焼却処分されたはずなのだが、翡翠はその形をスケッチブックに描いていた。


「見たのか、それ」

「うん。写真だけどね。ははっ」


 翡翠が自ら好んで絵を描いていることを賢人は彼女が入院するまでほとんど気づかなかった。ベッドの上で上半身を起こし暇があると描いている、という風だった。

 賢人が見舞った時に翡翠が寝入っていると目が醒めるまで賢人は枕元に置かれたスケッチブックを観て飽きなかった。


 病院の窓から見た野良猫。

 隣のベッドの小さな女の子が手を組んであくびをしている様子。

 トレーに乗った病院食。

 賢人が差し入れた紫をしたスミレの一輪挿し。

 そして小魚のような可愛らしい形をした良性の腫瘍。


「賢人」

「なんだい」

「この腫瘍、もしかしたら暗示かも」

「なんの」

「神さまが生まれる、その暗示」

「翡翠のお腹からか?」

「うん。そう。わたしが神の母親」

「大丈夫か」

「狂ってるつもりはない」

「いつ、産むんだ」

「うーん。賢人とやらしいことができるようになったらかな。ははっ」


 賢人が社長を勤める会社に監査が入ることになった。何か不祥事を起こした訳ではなく親会社からの定期的なグループ企業監査だ。社長である賢人は監査の一環として一週間の強制休暇取得を言い渡された。

 翡翠が喜ぶ。


「休みだね」

「社員たちから連絡は常に入る。休みであって休みじゃない」

「行きたい所があるんだけど」

「また日本横断か」

「ううん。ベトナム」

「え」

「お金、ある?」

「あるように使うんならあるといえばある」

「行こうよ、賢人」

「何しに」

「神様の絵を、ワールドワイドにしに」

「ふざけてるのか」

「ううん。真面目。ははっ」


 賢人は商社の人間なので常にパスポートの更新をしているが翡翠は海外へ行ったことはなく、サンシャインシティーにある池袋パスポートセンターで大慌てでパスポートの申請をした。翡翠は自分を識別するための写真ならば通常通り眼帯をした顔にするべきだと主張したが通らずに灰色グレーの失明した左目を晒すことになった。一週間で出来上がり受け取りの日、つまりギリギリ出発の前日、そのままサンシャインシティーで渡航に必要な小物を買い揃え、気が早いアジアンダイニングで夕食を摂った。


「なんでベトナムなんだ」

「子供の頃映画を観たから。プラトーンってやつ」

「オリバー・ストーンのベトナム戦争を題材にした映画だな。そんなものを子供の頃に?」

「うん。母親が家を燃やす直前の日曜日だったかな。父親がリバイバル上映の映画館に連れてってくれて。それだけだったかな、父親のいい思い出って」


 賢人もその映画を観たことがあった。希望というものが皆無の戦争の、映画。

 敵も味方もすべてが敵となって苛み合うそれ。それが父娘の記憶に残る思い出だということが既に賢人には翡翠の人生の底知れない哀しみを伝えて十分であり、この瞬間にベトナム行きを決断したことが間違いではなかったと感じた。

 ベトナムにもあるのだろうかというようなアジアン・テイストのヌードルを啜った。


「おもしろいな、これ。オリーブオイルとオリーブの実とトマトがベースのソースだな」

「賢人。言ってる意味が分かんない」

「食べたこと、ないのか」

「ない。おいしい」

「そうか。よかったな」

「皿に残ったソース、舐めていい?」

「ダメだ」


 賢人と翡翠は、本当に久しぶりに笑いあった。

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