跳びたい
仕事で賢人が忙しくすればするほど夜の寝つきがよかったとしても数時間しか睡眠が持たずに明け方に目を醒まし、隣に妻や夫やあるいは恋人が寝ていたとしても、その伸ばす手が相手の手を握ることができず、仮に握れたとしてもその手が伸びてきたことの深刻さを感じ取ることができないために配偶者や同伴者たちが身をよじって拒否した時。
彼女・彼らは生きることをやめる。
繰り返しになるが賢人が仕事を忙しく勤勉にすればするほど、生きることをやめる顧客たちが増える。
それは翡翠が神の絵の参拝者を募ろうと弟を呼ばわったことと似ていないだろうかと賢人は心の中で思考していたがそういう病室でするのにはふさわしい話題をネタとして持っていたところ翡翠が退院してしまったためについぞ語り合えずに二人は病院を後にして一旦マンションの神社に戻って時間外にも督促で顧客の家を法定の夜間ギリギリまで駆けずり回る賢人の営業車に神の絵と翡翠とが同乗し、賢人の運転で東京都内をしばらく走らせ、これ以上遅い時間に督促をすると監督官庁から名指しで注意勧告され最悪の場合は社員5人とはいえ業務改善命令を下される。親会社はその場合には経営の独立性を強調し極力関係性を否定する。そして賢人は親会社という戻るべき場所を失い、自分の人生を、否、賢人と翡翠の2人分の人生を、そして悪性ではない腫瘍を腹の中に抱えていた翡翠のその腫瘍が『腹の中のモノ』と指摘されたそれであろうモノをも棒に振るのであろうと賢人も翡翠も自覚した。
神に仕える身の上の者ですら畏怖してしまうモノ。
翡翠は賢人の営業車に同乗した。
そして間違いなく自殺予備軍である賢人の『顧客』たちの元を回った。
神の絵を持参して。
「カネ、返しなよ」
翡翠の言うその言葉は決して督促ではなかった。こうした方がアナタの人生がより良いよ、という勧告であり救いの言葉のつもりだった。神の絵を積んだ車の後部座席を顧客たちから見える位置に向けて賢人は車を停める。
驚くべき効果だった。
顧客たちは恐れおののいた。ストレートに言えば賢人と翡翠を狂っている、と思った。だからクレームを入れることも顧客たちはしなかった。できればカネを返して手切れしたい。だから部外者である翡翠がこの仕事に関わり、明らかに違法に個人情報を知り得ていることを親会社も感知できなかった。
賢人は社長としての優越的地位を存分に使い尽くした。
顧客たちに、死ぬことを辞めさせるために。
矛盾するようだが、神の絵を見た顧客たちは底知れない未来への恐怖を抱く。
『死んでも何一つ解決しない』という事実の未来に。
だから顧客たちはとりあえずの安寧を得る現実逃避の為にカネを返すべく努力をし、ある者は無謀な昼夜のパートタイムの仕事をこなし、ある者は人体実験に似た被験者としての雇用に身を投じ、そしてある者はこれまで頭を下げたことのない人生において初めて親族にカネを無心する。
翡翠は絶対の自信を持つ。
自信というよりも事実を。
「わたしは、神に、仕えてる」
真正面からそう言った後に、「ははっ」という笑みを付け加える。
賢人と翡翠はこうしてマンションの神社たる格付けを徐々に上げていった。
神の絵のために。
その中に確実に存在する、日の女神のために。
絶対的に正しい所業を自分たちは行っているという事実のもとに。
『死んでも何も解決しない。死んでも何も終わらない』
そういう絶望の未来への跳躍のために。
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