閉じたい
検査入院とは言いながら翡翠は開腹して腫瘍の組織を確認することとなっていた。翡翠自身は手首の自傷癖がありながら下腹部をメスで切り開かれてそこに傷跡が刻まれることを望んではいなかった、決して悲観するわけではないが。
翡翠には申し訳ないがと思いながら賢人は翡翠の生白い腹腔の辺りに傷ができることを、しかも手首のそれと同じように永久に生乾きの傷であったならばとても美しいのにというやや異常な嗜好を抑えることができなかった。
だからという訳ではないが翡翠の手術の日に休暇を取った。社長である自分が休暇を取るに当たり、賢人は社員たちに「金庫は開けないでください」と申し述べた上で親会社にも連絡した上で休暇整理簿に自ら押印した。
「金庫は賢人しか開けられないの?」
「そうだ。不意な回収金がある時は極力債務者をコンビニにでも連れて行ってそこで振り込んでもらうようにしてる。金庫のキーは当然事務所保管だが、ダイヤルの番号は俺しか知らない」
「へえ。なんか偉いっぽいね」
「一応は責任者だから」
翡翠は痩せた。
もともと神のお下がりが主食なので痩躯だったのだが病院食が余程口に合わないのかパジャマ用のTシャツを着替える時に見えた薄い胸とその乳房の間にある胸板にはほんのりとあばらの形が浮かんでいた。
「じゃ、行ってくるね。ははっ」
「ああ。待ってるよ」
翡翠のストレッチャーが手術室に入った後、賢人はしばらくしたらカフェへ移動して待とうとも思っていたのだが気分的にある程度のまとまった時間が経過しないとそれはいけないと感じた。だから手術室前の廊下で横長椅子に浅く座りスマホでフォローしている写真家の神の絵をまた見ようとしていたところ、何重かの自動扉が開いた。
出てきたのはオペ用の術着を着、ほんのりと血が掠れた感じで付着している女性の看護師だった。なんだかぼんやりしている様子だが冷静な表情という風にも捉えられる。
「すみません。中に入っていただいていいですか」
「え。どうして」
「いいから、早く!」
叱責というよりは殺意を抱いたような表情に豹変した彼女が殺菌も何もしないままの賢人を部屋の中に引き入れた。
賢人が最初に見たのは背後からの光景だった。だから、どうして手を顔に当てているのだろうと思っていると看護師に前に回るように言われ、その時、術用の布で覆われた部分から翡翠の腹腔の部分なのだろう、生赤い、けれども美しいサーモンピンクの壁面がほんの一瞬だけ見え、それは翡翠の秘部を見るよりもエロティックな感情を賢人にもたらしたために目を逸らした。その逸らした目の先に、執刀医が左手で左目を押さえ、ぼろぼろと雫のようなものを滴らせていた。
量は多くないが、血の混じった涙のようだった。
医師はそれでも冷静につぶやいていた。
「彼女の体内の、骨か何かかだろうか。メスを彼女の腹腔の柔らかな肉に差し込んだ時、破片が私の眼球に突き刺さった」
だから? というのが賢人の正直な感想だった。
子供の頃に行きつけていた鍼灸院で乗り物酔いに効果があるというツボを針で治療するという時、毛穴に入るほどの極細の針を使用してのことと言いながら、針を体内に差し込まれると鈍痛、というか、脂汗が滲むような低音の痛みに耐えた、あのことを医師の眼球の損傷と重ね合わせて賢人は考えていた。
翡翠の開腹された、その愛おしい綺麗なピンクの部分をもしできることならばスマホの画像として保存したいという夢想に駆られた。
が、看護師が場を現実に引き戻した。
「先生。代わりの執刀医を呼ばないと患者が」
そこで一旦言葉を区切り彼女は直接的な表現を選んだ。
「死にます」
賢人はそれはそうだろうという常識的な考えをすぐに持ち、声に出した。
「先生はもう無理でしょう。代わりの先生を」
「分かっています。今電話します」
執刀医は看護師からスマホを受け取りおそらく同僚の医師に電話をした。左目の痛みは相応にあるであろうが比較的冷静に話す彼を見て医師は単に技術だけでなるものではないのだろうという思いを強くした。
「ケンノキ君? 僕だけど、ちょっとオペ中にトラブルで。カルテは見せてあったしプランも話してたよね? 今すぐ来てくれないか?」
相手が気の置けない同輩か後輩医師であろうことは容易に想像がついたが賢人はこんなにもあっさりと引き継ぎができるのだろうかと懸念したが、事実それはあまりにもあっさりとした交代劇だった。
「先輩、この部位からですね。ところで眼はどうされます?」
「歩いて処置室に行ってくる」
「はい。失明しないといいですね」
「ケンノキ君。患者は左目が見えない」
「あ。すみません。大変失礼いたしました」
後輩医師は義務的にそれを言った後、手術に没頭していった。最初の執刀医がどうなったのかは賢人には分からない。
翡翠の腫瘍は悪性のものではなかった。
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