言いたい

 翡翠は総合病院でいつもの精神科ではなく、賢人に付き添われて内科を受診した。どの科を受信するか迷ったが総合案内で腹部に違和感を覚えるとだけ翡翠が告げると担当の看護師は声に出して唸った後内科を勧めてきた。内科の担当医はおそらく翡翠の精神科のカルテも引き継ぎながらこう言った。


「想像妊娠、とか」

よ」

「ふうん・・・」


 賢人と翡翠を見比べる。


「彼氏の前だからそう言ってるとか」

「先生」


 賢人が医師を制止した。そのまま低い声で続けた。


「訴えますよ」

「ああ・・・すみませんでした」


 翡翠がMRI室から出て来て再び医師からの説明を賢人と翡翠とで受けた。医師はごく客観的な表情と口調で告げた。


「腹腔に腫瘍が見られます。かなり大きいです。いつから違和感を?」

「うーん。ついこの間ぐらい」

「そんなはずはないでしょう。便秘ではなかったですか?」

「最後に大をしたのは3ヶ月前だったかな。ははっ」


 医師の言い回しから気掛かりなく日々を過ごせるような状態でないということは分かった。医師によると腹腔にある腫瘍が腸を圧迫して重度の便秘になることは通常のことだという。そういえば賢人はマンションに居ても外食しても、神の絵と共に行った巡業の時のトイレ休憩ですら翡翠が便所で用を足す場面や素ぶりに出くわしたことがなかった。


「検査のために入院が必要です」

「どれぐらい?」

「4週間ほど」

「うわ。困ったな」


 翡翠は大げさなジェスチャーで医師にアピールした。普段使わない少女の表情で続けざまに質問した。


「絵を飾ってもいいかな」

「病室にですか? 構いませんよ」

「ほんとに?」

「というと?」

「神様の絵なんだけど」


 個室ではなく大部屋での入院となり大きな絵は飾れないこと、仮に飾れたとしても絵の内容が同室の患者たちに精神的な恐怖を与える可能性があること、そして翡翠と賢人がやや狂っているような挙動を見せたことから医師は許可しなかった。


「賢人。絵、よろしくね」

「すまない。自信がない」

「怖い?」

「うん。怖い」

「絵が? 弟や兄姉たちが?」

「両方、怖い」

「新聞屋、呼ぶ?」

「それは嫌だ」

「誰か友達で居ないの? 怖い時に泊まりに来てくれる」

「女でもいいのか」

「居ないものを仮定の話したって無駄だよ。ははっ」


 賢人には新しい仕事を覚える作業も必要だった。ただ、その作業は知識を身につける類のものでは無くいかに他人を頓着なく冷静に扱えるかという人格改造にも似た作業だった。賢人は金本だけでなく先輩たち、全員シルバー人材センター経由で応募してきた取り立て屋のOBたちなのだが、そのためのいくつかの具体的な方法を賢人に対してOJTだけでなく理論面でも語って聞かせた。


「逆神君、絶対反省しちゃダメだよ」

「どういうことですか」

「この世の中には借金をきちんと返す人間と返さない人間の二種類しかいない。そもそも借金しない人間を入れれば三種類だがキャッシュレス決済も後払いならばつまり借金だからごく少数だろう」

「そうですね」

「返す人間と返さない人間。どちらが正しい」

「返す方ですね」

「それがすべてだ。明日には僕も死んでるかもしれない。だから今この瞬間の確実な方法、現金決済しかしない。家族にも絶対に借金だけはするなと言い聞かせてある。奨学金も貸与制ならば借金だから息子には大学院進学は諦めさせた。行くなら自分の稼いだ金で行けと言った。ウチは家すらローンを組まずに現金で建てた」

「本当ですか?」

「そのかわり、粗末なあばら家だよ。僕は身の程に応じた生活をする。借金するぐらいなら。だからね、逆神君」


 賢人が運転する営業車の中で先輩の老爺は強調した。


「我々は正義だ。仮に債務者が自殺したとしても正しいのは我々だ。だから絶対に反省しちゃいけない」

「何人ぐらい自殺したんですか」

「僕の督促が直接引き金になったとはっきり言い切れるだけでも10人」

「10人」

「間接・遠因を入れたら100人以上だと思うよ」

「夜、眠れますか」

「だから言うんだ。逆神君。眠れない夜を過ごすべきは借りた側だろう? そして個人的な事情でその人たちは死んだ。君や僕が眠れなくなるいわれはない。そんなの間違ってる」


 不思議な作用だった。


 賢人は抗うつ剤と併用している睡眠導入剤を飲んでも十分に眠れる夜はなかったが、この子会社の仕事を始めて金本や先輩たちの挙動を見て仕事上その通りにしなければならないという必要性から、「悪いのはアンタの方だろ」という感覚が毛ほど湧いただけで熟睡できる日が週に何度かできるようになった。「アンタが悪い。俺は悪くない」。この論法は今の仕事だけでなく生活全般や過去の両親との関わりや人間関係についても及び始め、それに伴って自分の精神が安らかになり始めているのではないかと感じるようになった。


 そしてそれは翡翠の見舞いに行ったある夕方、翡翠から聞いた担当看護師の話で固められた。


「賢人。その看護師、夜勤の仮眠室で寝てたら壁から腕が何本も出てきたんだって」

「幽霊か」

「だろうね。でね、その腕に向かってこう言ったんだって。『アタシは舅・姑と同居してその介護もやってる。仕事は夜勤シフトもある。疲れてんだよ! 出るなら暇を持て余して毎晩ぐっすり寝てる奴らの所に出ろよ!』って。そしたら腕がすぐに消えて二度と出て来なかったんだって。ははっ」


 賢人はマンションに一人で居るための大いなる安心感を得た。



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