生きたい≠死にたくない
静寂そのものの社殿に神職が居たことが現実離れしているように思えた。それどころか奔放な翡翠が若い神職に気遣いをしていることが賢人には不気味にすら感じられた。
「すみません。お忙しいのにわたしたちだけのために」
「いえ。これもご縁でしょう」
翡翠はご祈祷料は自分で払うことにこだわった。
生活保護から。
木々の中の静かな時間。
境内の土は柔らかな、葉と枝と元々の大地とが混ざり合って程よいクッション性を実現し、その山道を踏みしめて歩いてきた賢人と翡翠は、清涼な靄がかった早朝の空気の中で二人して頭を垂れていた。
神の絵を神前で奉じて。
遠方から来たと言うことで祈祷が終わった後、神職がお茶で二人を接待してくれた。
神職自身も天照皇大神宮が描かれた絵のこれまでの激烈な履歴に興味があり、賢人は躊躇したが、翡翠は全て話した。
実家の神社の火事のことも含めて。
「なぜ当社にお参りに来られたのですか」
神職の当然の問いに翡翠は立派な態度で答えた。
賢人から見ても翡翠の口の利き方の見事な変わりぶりに感激するぐらいだった。
「母方の祖母が若い頃、柞原の八幡さまにお参りした時のことを聞いていたからです」
「何があったのですか」
「本物の地獄を見たんです」
「地獄・・・」
「宮司様はこのお社に奉仕される立場です。ですからわたしの話をただ聞き流していただければ・・・祖母は地獄のそのままの情報を一身に受けて、気が狂いそうになったそうです。その時、自分が嫁いだその神社でご神託があったと」
「ほう・・・・」
「豊後の国の柞原八幡宮で世界平和を願えと」
「世界平和」
「そして自分が見た地獄そのものを絵にせよと」
「そうでしたか・・・世界平和」
「家族に先立たれ神道の知識をつけないままのわたしでも地獄の概念は仏教のそれだと存じております。ですが、祖母は、『神というも仏というも一骨分身にして別あるにあらず。仏と神と現れ現世には人間の長久守りたもう』という法然上人の歌の一節をご神託で示されたと」
「
「はい。できれば。伴侶も見つかりましたので」
伴侶? 俺のことか?
賢人が翡翠に言われるままにしていると、
「そうですか。
神職の言葉を聞きながら、賢人は意を決して質問をした。
「翡翠は、何に取り憑かれているのでしょうか」
神職は随分長い時間、翡翠の腹の辺りを見つめ、口を開いた。
「神に仕えるわたしですら畏れ多くて申せません」
「どうすればいいんでしょう」
「翡翠さん。それを含めて、人間でしかないわたしにはわかりません」
「そうですか・・・」
「ただ、貴女がおばあさまの志を継いで地獄の本当の姿を人々にそのままの形で伝えることができるなら、あなたのお腹の中にいるモノが、災いとなることはないでしょう」
「できなければ」
「おばあさまが見たとおりの地獄がこの世の人々に襲いかかるでしょう」
昨日までは死にたくないという気持ちだった。
今、神職の言葉を聞いて。
翡翠が神の絵と本当の地獄を伝えるその補助者として、生きたい、という理由ができたと思った。
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