逃げたい

 賢人と翡翠は地獄へ行った。


 堕ちたのではなく、車で巡ったのだ。


 別府では湯気が湧く源泉の場所を地獄に見立てて地獄巡りという観光コースを設定しているのだ。観光ガイドに載る写真に作りもの感が溢れており、翡翠の緊張感を逆に解けるだろうと考えて賢人は翡翠を連れて回った。

 明らかな観光地としての地獄で賢人は翡翠に他意なく訊いた。


「地獄ってあるのかな」

「あるよ」

「神社の巫女でもそういう見解か」

「違う。見解じゃない」

「・・・事実、か。けど、それを検証した人間はいないだろう。あ、臨死体験した人とかか」

「違う。現世に居ながらにしてホンモノの地獄を見た人を知ってる」

「『地獄みたいな』って比喩の体験とか光景じゃなくって」

「地獄絵図の地獄じゃなくって本物の地獄を映像として自分の瞼にはっきりと捻じ込まれた人」

「誰だ、それは」

「母方の、祖母」


 蒼色の源泉を柵に手を掛けて覗き込んでいた賢人は翡翠が言うことが単純な事実だと考えたくは無かったが、認めざるを得なかった。

 賢人は地獄があって欲しく無かった。

 物理的にのこぎりで引かれるような苦痛に晒されてそれでも肉体が滅びないようなことが現実にあったとしたら。


 何をどうすれば救われると言うのだ。


 賢人は青春時代に観たアル・パチーノの映画を思い出していた。原作の和訳小説を読んだこともあった。

 電動の、丸い鋸で敵を殺す。

 残虐の極致のような気がしていたが、翡翠の話を聞いて賢人はそれが浅はかな人間の知恵の範疇を出ないものだと思い知らされた。

 ただ、口でどんなに翡翠が描写しても、実写としての鬼がやはり賢人にとっては想像でしか分からない。


 けれども翡翠はまるでこの間からの自動口述のように執拗に口だけで描写していく。


 亡者の体を段違い平行棒のような器具にくの字に折って引っ掛けて、そのまま体のうなじの真ん中辺りから左右対称に鋸の歯をゆっくりと引き始める。

 歯が肉と骨とにうまく引っかかったら、鬼の遅筋の腕力と速筋のスピードで背骨の粉をプチプチと切断される血管の血液に溶かしながら、臓物もひしゃげ潰しながら切っていく。


 それを描写するために動く翡翠の横顔の唇の開け閉めが賢人にはとても魅力的に見えてしまった。


「母方の祖母は、地獄からナマで送られてくる映像と音声と匂いを嗅いでもそれでも発狂しなかった。そしてそれを、絵師に描かせた」

「誰がそれをおばあさんに見せたんだ」

「そんなの、人間のわたしに分かる訳ないじゃない、ははっ」


 翡翠の母方の祖母は神社の巫女でありながら自分の観たホンモノの地獄のイメージを旅の絵師に伝え、何本もの掛け軸に鮮やかな顔料を使った日本画として描かせた。そしてそれを使って地獄の現実を人に説いたという。


「わたしも、多分、見た」

「地獄をか」

「そう。わたしの実家を母親が燃やした時。弟の髪の毛が焼ける匂いと、多分体液や血液が灼熱で蒸発前に成分が焦げ付く匂いと、あれは、現世のモノじゃなくって、瞬間的に地獄の空間の一部が実家の台所に捻じ込まれたんだ」

「誰がそんなことを」

「だから! 人間ごときの我らに分かるかよ! そんなもん!」


 死にたくない。

 賢人は死にたくなかった。


 死んで、もし翡翠の祖母が瞼と脳内に捻じ込まれた地獄へ堕ちてしまう可能性が1%でもあるのならば。


 死を1秒でも先送りにしたかった。

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