疚しい(やましい)

 温泉の街に入った。

 だが、賢人と翡翠が最初に行ったのは海だった。


「賢人。空なんか撮って面白いの」


 翡翠の質問にも賢人はスマホのカメラを撮り続けながら答えた。


「後で見て一番飽きないのが空なんだ」


 土産物屋と併設されたレストランがあるごく普通の砂浜。無造作に組み上がったようで計算がなされているはずのテトラポットの上で賢人は足元を見ずに移動しながら空の写真を撮り続けた。翡翠は退屈を感じたが、賢人が写真を撮る横顔が宗教画のそれに見えたのでそのままにしておいた。


 たっぷり1時間海で過ごした後で温泉のある山間の方へと車を向かわせた。賢人は気が進まなかったが翡翠の言うままにガイドブック的な雑誌を一誌コンビニで買って水蒸気がそこかしこで昇っている斜面をできるだけエンジンではなくモーターで進むようにした。


「賢人。混浴ってないのかな」

「別々でもいいだろう」

「ダメだよ。逃げるから」

「俺がか?」

「そう。冗談で言ってるんじゃないよ」

「・・・・・」

「逃げたいでしょ、今でも」

「少し、な」

「怖い? わたしって」

「ああ。怖い。でもそれだけじゃない」

「どんなふう?」

「エロい」


 賢人はギャグのつもりだったが和むどころか空気が沈み込んだ。翡翠が除湿機のタンクが満タンになったような重たさで無理矢理に会話を続けて来た。


「エロが目的でもいいから逃げないで。わたしが帰れなくなるから。お金ないし」

「それって冗談か?」

「冗談なわけないよ。わたしは九州で暮らすつもりはない」


 傍から見たらじゃれ合いだろうが賢人と翡翠の当事者たちにとってはギリギリのせめぎ合いだった。賢人は逃げようと思えば物理的にはあっさり逃げられるのだ。

 神の絵と共にあるため男女のまぐわりをすることは想像すらできないが、足、手の傷と翡翠の体に触れてきた賢人にとって、湯の中で翡翠と隣り合い、例えば原爆を打ち消すためにウズメとして広島の原爆ドームの前で白のワイシャツをはだけて舞ったその薄い胸に手の平を重ねることがとても魅力的で心の安寧すら得られるのではないかと切なくなった。


 そう。


 翡翠への感情が、翡翠の体そのものを思った時、切ないものになるのだ。賢人は性欲ではない翡翠の体への興味の原因を確かめてみたいと思った。


「泥湯の混浴なら見えないだろう」


 賢人の一言で泥湯が目的地になった。

 ただ、タオルの持ち込みが禁止だということは想定外だった。


「俺があっち向いてる内に、泥に入れよ」

「そうするよ。ははっ」


 そしてもう一つ想定していなかったのは他の入浴者もいたということだ。

 多分20歳ぐらい。

 女性だった。


 賢人は泥に浸かったまま少し離れて二人の女から視線をずらすためにずっと脱衣場の方を斜めに見るようにしている。だから女性には翡翠が応対した。


「観光ですか?」

「仕事」

「へえ・・・あの、何の?」

「巫女」

「あ。へえ・・・」


 賢人は翡翠が神の絵などと言いださないか心配していたが、女性はそれ以上深く職業については訊かなかった。代わりに翡翠の方から訊いた。


「地元でしょ?なんでこんな昼間から温泉に?」

「看護師なので。夜勤明けです」

「そうなんだ。よく来るの?」

「はい。疲れ果てた時に」

「ふーん。看護師って疲れるよね」

「あ。分かっていただけますか」

「うん。死にたい患者を引き止めなきゃいけないしさ」


 神の話でなく病気の話もされたら困ると思っていたので賢人はようやく口を挟んだ。


「いい所ですよね、別府」

「そう・・・ですね。お二人はどちらから?」

「東京です」

「そうですか。いいですね、東京。わたしも本当は行きたかったんですけど」

「進学で?」

「はい。でも、面倒になって。せめて泥湯でも入ってないとやってらんなくて」

「ははっ。泥湯で憂さ晴らしだ」

「彼女さん? ですか? 冗談じゃないんですよ。ほんとにやってらんないんです。ここにいると」

「ごめん」

「いいんです。ただ、わたしは逃げなかっただけですから。彼女さんは逃げたんですよね? 地元から」

「逃げ・・・た? わたしが・・・?」

「え・・・ごめんなさい!? わたし、ちょっと言い過ぎました」

「逃げ・・・た。わたしは。全員死んだ。全員燃えた」

「す、すみません! 彼女ちょっと子供の頃にトラウマがあって・・・翡翠、上がろうか」


 賢人は翡翠の脇から手を入れて胸を抱くようにして抱え、泥から上がった。


 看護師はごめんなさいを繰り返している。


 翡翠の薄い胸の脂肪だけでなく、二つの突起も自然と賢人の手のひらに収まっていた。

 ただ、泥がボディ・アートのように肌の露出を遮っていた。

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