可笑しい
翡翠の生白い脚がまだ賢人の目の前にぶら下がっていたが賢人は裸電球が点滅する異常現象への恐怖の方が勝り、恐怖とは認識できないものに対する不安だというこれは賢人の祖父の遺訓を思い出しながら不安を取り除くために押入れの戸を引いた。それが命の終わりになったとしても。
戸を開けた瞬間、暗闇になった。それから3秒して再点灯した時、神と目が合った。
この瞬間、神の絵の女神が、初めて正面を向いて描かれていたことを認識し、自分はやはりうつの症状で客観的に絵の構成を捉えられていなかったのだという現実に絶望しかかった時、もう一度消灯した。
翡翠の部屋の木製引き戸の磨ガラスから赤い誘蛾灯の光が滲んでおり、その光で映し出された輪郭が微動だにせずにそこにあった。影、の持ち主が誰なのかを今度は突き止めなくてはこの恐怖は永遠に消えないのだということに次第に恐怖だけでなく億劫さが混じってきた。
戸に手をかけるとき、声を発して相手の素性を問うべきかしばらく迷ったが、一向に止まらない灯火の点滅が耐えられず、呼びかけと同時に戸を引いた。
「誰だ」
「儂だ」
立っていたのは男の老人だった。
年齢不詳だが外見だけで賢人は彼を老人に分類し、そのまま次の質問を置いた。
「だから誰だ」
「同居人だ。新聞屋だ」
老人は朝刊をひとつ手にしていた。それを賢人に手渡してこう告げた。
「廊下で話そう」
同居人で新聞屋と名乗る老人と2人で赤い照明の下で立ったまま話した賢人は老人の情報の中の『同居人』という属性に落胆していた。実家の神社で全員が死んだと言っていた以上この老人は翡翠の祖父ではなく、だとしたら同棲人ということなのか。だが、賢人は老人の話に徐々に安堵していった。
「儂が朝刊の配達を終えた後、新聞一紙を部屋代に翡翠に押入れの下段で仮眠させて貰うんじゃ。部屋の灯りの点滅は、これじゃ」
老人がカチャカチャと廊下の柱に取り付けられた翡翠の部屋のブレーカーを上げ下ろしする。部屋の中で裸電球が点いたり消えたりした。
「こうやって翡翠を起こして鍵を開けて貰うんじゃ。今日は熟睡しておったようじゃな。代わりにお前さんが開けてくれた」
「神の絵のことは」
「ほほ。神の部屋じゃからな、ここは。当然知っている。じゃから翡翠には手出しできんしする度胸も儂にはない。まさかお前さん、神の前でそんなことしとらんかろうの」
「足を、撫でた」
「ほほ。若いの。儂は枯れてそんな気すら起こらんわ。ただ、どうしようもなく泣き出したくなるような明け方はの、翡翠はそっと腕を下ろして手首の傷に触れさせてくれるのじゃ」
老人のその行為にはあくまで癒しを求める老人特有の寂しさがあるのみで性的な意味はないと分かっていながら、賢人は嫉妬の表情を隠しきれなかったらしく、老人が続きの質問をしてきた。
「まさかお前さん、手首の傷にも興味があるのか?」
賢人はこの不可思議な老人に嘘をついたところで有利不利になんの影響もないだろうと判断し、そうだ、と告げた。
「ほほ。お前さんも異常じゃの。もし翡翠にそういう気持ちを持っとるならばホテルにでも誘えばどうじゃ?」
不思議と怒りの感情は賢人には起こらず、異常な自分を自覚できたことが翡翠に近づけたようでこの老人に対する感謝の感情すら持ち始めていた。賢人は翡翠と老人が交わしている仮眠の契約を遮る権利などないと思い、部屋を出ると言ったが老人は賢人を引き止めた。
「儂と下段で並んで寝るのはどうじゃ? お前さんが気持ち悪いというなら仕方ないがの」
賢人はなんにせよ翡翠との繋がりを途切れさせたくないという気持ちから老人の提案を受け入れた。
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