愛しい
賢人は満腹感を覚えないまま美術館に併設したレストランを出て土手の道を歩いていた。自分の少し斜め後ろには両手を後ろで組んで推進力をわざと削ぎながら歩く翡翠がおり、最初は眼帯を外した左目の光ないグレーと右手首のぷっくらした生新しい一筋の、けれども変色していない鮮やかなままの赤色の線とばかりに目が行っていたのだが、何日か前に降った雨が溜まっただけの小さな水の窪みに映った月に目を落とした時、翡翠の足首が異様に細く、足下はソックスを履かない素足にデッキシューズをつっかけているその脚を見てやはり異様な興奮を覚えた。
ときめきとは恥じて描写できない感情だった。
「ははっ」
何が可笑しいのか間投詞のような文章を伴わず単独で翡翠が一声だけ笑ったのが後ろから聞こえ、賢人はもう一度振り返った。
「まだかい」
「もうすぐ」
翡翠のアパートは徒歩で行けると言ったが一向に着かず、これがもしかしたら精神の病の何がしかの副次症状によって時間感覚や疲労感覚が損なわれているのかもしれないという可能性に賢人は少しずつ諦めかけていたが、不意にそのアパートは見えてきた。それは極端に急な坂の上にある今どき珍しい門構えの建物だった。
大家がいるのだろうかと賢人はあまり重要でない付属情報に興味を示しかけていたところ、本当に大家がいた。
「あら、翡翠ちゃん。お帰り」
「ただいま、おばさん。この人、今晩泊めてもいいかな?」
「いいけど、騒がしくしないでおくれ」
小説の中でしか読まないような言い回しをする大家に促されて賢人が翡翠の二階にある部屋へと木製の内付け階段を昇ると赤い照明にやや驚いたが翡翠が笑い話のように言った。
「誘蛾灯だよ」
翡翠の部屋は見事なまでに何もなかった。神の絵以外。
異様という言葉で描写してもし尽くすことのできない、それは狂った部屋だった。
部屋の白壁、精密に言うと過去住人の履歴のようにタバコのヤニで茶煤けた壁の柱が通っている部分を中心に、遺影の額を吊るすような罰当たりな細い紐で、鴨居に付した金具から紐で掛けた、一枚板に描かれた日本画である日の神の絵は賢人が地元の神社で見た天照大神とは少し趣の違う表情だった。
賢人からはどう見てもその女神の表情が笑顔にしか見えなかった。朗らかなそれではない。見る人間に緊張感を与える、分類しようのない表情。賢人がSNSで見た天照大神はその額から兵器のような敵を貫き尽くす太陽の光線を放っていたが、翡翠の部屋を壁画のように占めるその女神は光線ではなく全身が光り輝いており、面というか体積というか存在した瞬間に周囲が既に光に溶けてしまっているような感覚を賢人に瞬時に伝えてきた。
どういわけか、マズイ、という感覚を賢人が抱いた時、翡翠が余りにも唐突に賢人に話しかけてきた。
「放火だったんだ」
5秒、間を置く。
「ははっ」
賢人は翡翠が笑顔で泣いているのかと思ったが、泣いていなかった。
ただ、笑っていた。
賢人は背筋にではなく、こめかみの辺りにくすぐったさを覚え、それはつまり恐怖の証だと考えた。それを素直に口に出した。
「翡翠は、なんなんだ」
「多分、神の使い。
賢人は今すぐ逃げ出そうと思ったが、翡翠の目のグレーと右手首の赤い線と、やや外反母趾の足指とに完全に性的な興味を抱いてしまっており、帰りたいという自分の生存本能を性欲というもう一つの本能で相殺してしまっていることを自覚していたが、動きが止まらなかった。賢人は翡翠を真正面から抱きしめたが翡翠が理解不能な反応をした。
「ここはアタシの部屋じゃないよ」
「え?」
「神様の部屋」
言っていることの意味は十分理解できるのだがそれは理屈の上でのことであって脊髄反射では決して納得できない自分がいると賢人は感じた。だが自分からは反応できず翡翠の言葉を待つほかなかった。
「だからアタシはこっちで寝るんだ」
翡翠が指さしたのは押入れ。指さす翡翠が真っすぐに素足で立つ畳の上のその壁に掛けられた宗教画としての日本画の神の絵。
それがアパートの板張りの黒光りする廊下と対をなす天井にぶら下がった誘蛾灯と翡翠が呼んだ赤い照明が引き戸の磨りガラスから漏れ入り絵を薄赤く照らすのが賢人は耐え切れなかった。翡翠はもう押入れに生白い脚を滑り込ませ、それに連動するようにハムストリングスからショートパンツを押入れの上段に乗せて利用価値なく畳んだまま積まれた敷布団の上にうつ伏せで寝そべっていた。
「お客は下」
翡翠に言われるままに掛け布団が畳まれた押入れの下段に賢人は体をくぐらせ、自分は仰向けになって透視できるはずのない上段でうつ伏せる翡翠の四肢を想像した。
「灯り、消さないのか」
「神社の常夜灯だから。消さない。電気代大家さん持ちだし」
神のために一晩中灯される部屋の裸電球。
翡翠はこうも言った。
「神の部屋で卑猥な行為をすると罰が当たって死んでしまう」
翡翠の言い回しにしては固いと思ったらこう付け足した。
「祖母の遺訓。ははっ」
そう言った直後に賢人が諦めて眠ろうとした下段に翡翠の右脚が、にゅ、と降りてきた。
「サービス」
それは賢人が自分のことを性的な対象と見ているはずだという自信なのだろうと賢人は思った。
賢人は翡翠の素足の親指の外反母趾気味のその突起を目で見て右手の親指と人差し指でさすってみた。
「戸を閉めて。アタシはまだ死にたくないから」
昼間道路に飛び出そうとしたことと矛盾すると賢人は思ったが素直にしたがった。
俺も死にたくない。
底知れぬ恐ろしさを脳で冷静に分析して、神の絵を最後にちらりと見つめてから押入れの引き戸を閉めた。建築年が二元号前であろうこの木造建築の歪みで光の入る隙間が十分で、常夜灯としての裸電球の明るすぎる光がまだ翡翠の足指の姿を映し出していたので賢人が鑑賞するには事足りた。賢人が指の間や外反母趾の辺りや足首をさするのとまったく関係なく翡翠は寝息をたてて熟睡し始めた。
うつは寝つきは悪くないはずだ。
今夜は眠れるだろうか。
賢人はそんなことを思いながら翡翠の素足を手でまさぐり、満足したあとにそのまま目を閉じて外の灯りを感じながらも眠っていった。
いつもの感覚ならは3時には目が覚める。
だが、賢人はそれよりも早くに目が覚めた。まぶしくて。
まぶしさは相対的なものだった。相対であるならばまぶしくない状態があるはずだと眠った脳で賢人が思考すると視覚的にその答えが現れた。押入れと引き戸の隙間から入ってくる灯りが瞬間暗くなる。そして次の瞬間に万度の明るさになる。それを繰り返す。
つまり、灯りが点滅していた。
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