涼しい

 声がして賢人は目が覚めた。隣を見ると老人はもう居らず、押入れの上段に翡翠の気配もしなかったので部屋の方から聞こえるその声は翡翠なのだろうと思った。だが昨日聞いた翡翠の声よりもキーが低く、心なしか喉の開き方も大きく開けているような印象を受け、賢人は引き戸をキシキシと開けた。


「平成31年4月の朝の光と恵を受け、本日も戦いし日常へと繰り行く我らを祓え給い清め給えと願いし儀、何卒何卒聞きとどけたまえと畏み畏み申す」


 翡翠は白のワイシャツに脱色した真白なスリムジーンズで、右手首に銀色に見えるぐらいのまばゆい白の包帯を新たに巻き、左目の眼帯もやはりくすみが一点もない真新しい白のそれに替えていた。

 そしてまずは直立で背筋を伸ばして立ち、それからひれ伏すようにひざまづいて正座の姿勢になってはまた立ちを二度繰り返した後正座してそのまま柏手を二度打って最後に擦り切れた畳に額を擦り付けて一礼した。神の絵の真下には御膳が置かれ、炊きたてであろう白米と小さなグラスに日本酒と煮豆が載せられ、その両脇には青々とした榊が、ツン、と立てられていた。最後の一礼で斜め前から見えたワイシャツの胸の辺りの肌の露出を見ると、どうやら下着はつけていないようだが、日の女神の正面を見据えて賢人は翡翠の白い肌に興味を抱けるほどの性根はなかった。


「おはよう、賢人」

「ああ。おはよう」


 朝の挨拶を交わした後、翡翠は意外としか思えぬように朝食を賢人に振る舞った。神のお下がりの白米と煮豆、それから大きめの煮干しを煎ったものと菜っ葉のおひたしに鰹節と醤油を垂らしたものだった。味噌汁はしじみ。


「眠れた? ははっ」


 決してかわいいという表現は翡翠に対してはできないと賢人は最初から思っていたが、かわいいと言う代わりに涼しいという表現を賢人は直接翡翠に伝えてみた。


「涼しい? ははっ。なにそれ」

「いや・・・なんか、神様の絵に祝詞を上げてる様子が清々しい、っていうか・・・」

「嘘、だね、賢人。本音を言っちゃいな」

「別に、ないさ」

「ま、いいけど。ははっ。それと祝詞は自己流。教わる前にみんな死んじゃったから」


 賢人は自分が今日も会社に出勤する日だということを忘れかかっていた、というか忘れようとしていた。そうすれば翡翠と丸一日居られるような幻想を脳裏に描いていた。


「ねえ、翡翠。仕事、何やってんの?」

「巫女」

「巫女?」

「わたしは、天照皇大神宮の巫女。それが仕事」


 現実には翡翠は生活保護を受給しておりそれで神の絵への供物、榊代、家賃、スマホ代、食費を賄っていた。新聞屋の老人からタダでもらう朝刊は貴重なのだという。


「ネットニュースがあれば新聞なんか要らないだろう」

「要る。死亡欄見るの」

「なんで」

「だって、死んだら弔わないと。天照皇大神宮の氏子だから」


 死人を弔うことが神道のエリアなのかどうか賢人は分からなかったが、狂っているように見える翡翠が巫女を気取っているとは考てもみなかった。いや、気取っているという言い方は正確ではないだろう。労働の対価とは言えないかもしれないが翡翠は生活保護という自分の所得をそのままこの神の絵への奉仕のために使い、残った金から生活を賄っている、むしろプロ中のプロの巫女と言えるのではないかと思った。


「翡翠」

「なに、賢人」

「今夜も泊めてくれないか」

「晩御飯、奢ってくれる?」


 賢人は悲しかったがそれでも何でも翡翠と会えるのなら構わないと思った。

 翡翠と賢人は夜にまた逢う約束をし、賢人は着替えて出勤した。

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