3-3

 G513 号室の扉を勢いよく開けると、部屋の奥で書棚と向き合う名城の姿があった。その傍で膝を待ち上げ回転椅子に座る川名が私の方に一瞥くれ、名城の白衣を引っ張った。


「なんだい、川名。僕いまちょっと考え事を――」

「千早」


 川名の指差す先を名城が追う。

 バチッと私と目が合うと、気まずそうに視線を反らした。


「ちょっと時間を貰ってもいいかしら」

「……手短にお願いしますね」


 私はゆっくり扉を閉め、名城に迫っていく。


「こないだの〝改名の儀〟の事だけど――」

「その件ならもう話すことはありません」


 ぴしゃりと言葉を刺された。


「僕は自分の家に代々伝わる秘密の儀式をお教えしただけです。それが論文に残っていようと、成功確率がデータに基づいていようと、貴方の言う通り、全てはなんですから」

「へえ、一丁前にふてくされる気? これだから良家のおぼっちゃまは甘ちゃんなのよね」

「僕が甘ちゃん? 千早さん、言葉には気を付けてくださいね」

「気を付けるっていったい何に? 私は本気でアンタと喧嘩しにきたのよ? あの子の改名をしてくれるまで私は何度だって牙を剥くわ」

「……そんなに大事ですか? 麻龍さんはただの友達ですよね?」

「友達だからよ。血が繋がってないからこそ大事なの。二人で築き上げてきた繋がりだからこそ大事なのよ――言ってもアンタには分からないんでしょうね。友達を呼ばわりする奴に友情なんて理解できないだろうし」


 名城は手に持っていた分厚い書籍を棚に戻し、私に向き直った。


「分かりました。千早さんの言ってることは正しいと思います。僕はまだ友情の〝ユ〟の字も知らない子供で、千早さんの方がずっと大人です。でもそこはってことにしておきます」

「何ですって?」

「だってそうですよね? それはきっと千早さんが僕より十年も年をとってるからそう感じるのであって、貴方が僕と同じ年の頃に人が出来ているとは思えない」

「呆れた……、アンタがそこまで子供じみてるとは思わなかったわ。アタシだったら十年前でもきっと同じ行動をとったわ。あの子の為よ? なんだってできる」


 名城が鋭い目つきで私を睨む。


「それじゃあ、千早さん、どうして貴方がしてあげないんですか?」

「改名? 私にそれが出来たらどれほど――」

「僕は貴方のお仕事のことを言っているんですよ」


 トクンと心臓が跳ねた。

 キイキイと丸椅子を回転させる川名の動きが止まって静寂が部屋を包んだ。


「千早さんのいる部署なら彼女の名前を変えることができたはずです。こんな非科学的な方法に頼らずとも、もっと確実に、できたはずですよ」

「それは――」

「貴方の言う友情とやらが大事ならできたはずです。でも、しなかった――いや、できなかったんじゃないですか――自分が何より大事だから」


 私は拳を握り込んで大きく息を吐いた。


「そうよ」

「じゃあ、友情も結局ウソですね――」

「ウソじゃないわ。友情が二の次ってだけ。自分が一番大事――それは当たり前のことでしょ」

「じゃあ、どうして彼女の為ならなんでもできると言ったんですか? 結局、自分の身を案じたからできなかったのに」

「一番を捨ててでも二番を選びたいと思うのは可笑しいことかしら」

「論理的じゃないですね――僕を説服させたいのならもっと理論武装して来るべきです。筋の通らない、場当たりの動機だけで、改名が出来ると思わないでください」


 川名が猫のような目で心配そうに私の顔を覗き込む。

 私は「大丈夫よ」と言うように頷いた。


「そうね、今までの私はアンタの指摘した通り、曖昧な気持ちでこの研究室の敷居を跨いでいたわ。麻龍のために、あの子のために、ってまるで何かに憑かれたようにココまで彷徨い歩いてきたわ。でも気づいたのよ――私は自分のためにこの研究所に来てたんだって」


 もう一度、名城に向かう。


「私、の」


 小さい頃から〝千早〟より〝千速〟がいいなと思っていた。

 酒乱の父はかつて将来を嘱望された陸上の短距離選手だった。しかし、特進入学の懸かった中学最後の大会でアキレス腱を切ってしまい、卒業と同時に陸上の道を諦めてしまった……という。酔って顔の赤くなった父の話は大袈裟でとても聞いていられるものではなかったが、母から聞く父の話は私にとって一番身近な英雄譚むかしばなしだった。それは父が亡くなった以後もずっと私の心の中で小さな灯りをともし続けていた。


――お父さんは仕事があるので朝起きるのがとても(  はや)い。


 私が漢字ドリルに〝速〟と書いたのを見かけ、母は取り込み中だった洗濯物をそのままにし、膝を折って私の横に座った。


――千早、そうじゃないわ。ここは何時に起きる?って聞かれてるから、こっちの〝はやい〟を入れなきゃね。そう、千早の〝早〟ね。


 私は首を傾げながら、とりあえず母の言う事に従って消しゴムで〝速〟の字を消した。それなら〝速〟い方はどういう時に使うのか。訊ねると母は笑みを浮かべながら、


――お父さんは足がとても(  はや)い。


 チラシの裏にペンを走らせた。


――これなら分かりやすいでしょ?


 私は嬉々として空欄に〝速〟を書き込んだ。

 そして白い歯を覗かせながら、今度はドリルの裏側をめくって、自分の名前の〝早〟の字を黒く塗りつぶすと、意気揚々と大きな字で〝速〟と書いた。

 唖然としていた母もついに笑いを堪え切れず、目尻に涙を滲ませながら私の頭を優しく撫でた。


 そこにいないはずの父も一緒にいるような気がして、心がじんわりと熱くなった。


 千速――それは幾もの影よりく走る者なり。


 そんな名前に生まれ変わることが出来たら、父の遺志を継いでみたい。

 いつしかそう考えるようになっていた……。



「私がこの場所に導かれたのは麻龍のためじゃなかった。私自身のためだったのよ」


 名城はすました表情で答える。


「僕も初めてお会いした時、その点を不思議に思っていました。このG棟513号室は日本でも有数の強力な求心力を持つ〝特異点〟ですが、改名の意志なく、偶然ココを訪れる人がいたことは未だかつていませんでした。なのでお聞きしたんですよ――『本当に名前を変えたいのですか』と」

「私は、あの子のためと言ったわね」

「そうです。その時は、知人の意志にも感応することがある、と一つのデータとして記憶に留めておいたのですが――その必要はなかったようですね」

「ええ、そうね」


 私は麻龍が座った回転椅子を引いてくると、その上にドカッと座った。


「何をしてるんですか?」

「ほら、改名して」

「ちょっと……、千早さん、冗談が過ぎますよ」

「私は自分の気持ちに正直になったじゃない。ほら、だから改名して」

「状況は変わりません。麻龍さんが千早さんに変わっただけです」

「そもそもなんで改名してくれないのよ」

「それは――僕の能力にも限界があるからです」

「私だったらできるの? 〝特異点〟を探せばいいんでしょ?」

「話しましたよね? 僕には〝経験〟がある。たった数パーセントの可能性でも何度も成功してきた僕にしかできない事なんですよ」

「なるほど。私や川名――それからにはできないって訳ね」


 名城は目を丸くして、何かに気付いたようにたぎる息を吐いた。


「トウリ……、そうか、アイツが千早さんを……」

「あの子を悪く言うのはやめて。ま、やってることはそりゃ馬鹿だけど」

「やってること?」

「駅前の飲み屋街の近くで〝命名師〟なんて胡散臭いことやってたわ。めいめい研に誘い込む筋のいいお客さんをキャッチするためにね」


 地面を踏み鳴らし、悪態をつく。


「クソっ、最近やけに多いと思ったらそういう事か――! アイツ姿を見せないと思ったらそんなことを――」

「私は、けなげだと思うわ……。こういうのを〝友情〟って言うんじゃないかしら」


 名城は信じられないものを見るような目つきでじっと私を睨む。


「何よ」

「トウリは……、それ以上のことを話してないですよね?」

「あら、何のこと?」

「いえ……、別に……」

「何? アンタに関するよもやま話? それともくだらない恋愛遍歴?」

「いや、いいんです」


「それとも――アンタが?」


 

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