参、飛べど昔日
3-1
「ただいま」
返事はない。
私は薄暗い廊下を歩いて、ワンルームの彼女の部屋のドアに手を掛けた。
彼女はベッドの前で足を組み、カーテンの閉め切られた暗い室内で、ぼうっと微睡む光を放つテレビを見ていた。夕方のニュースは今日も平和だ。ニュースキャスターの愛犬が芝生を走り回り、幸せそうな彼女がそれを追いかけ回している。
「晩ご飯食べた?」
「……」
彼女には私の声が聞こえてないようだ。
「本当はスーパー行きたかったんだけどさ、雨降りそうだったからコンビニでサッと買ってきちゃった」
私は部屋の電気を点け、ビニール袋をローテーブルの前に下ろした。
「最近、ラクを覚えちゃってイケないのよね。嫁入り前の女がさ、コンビニ弁当なんて、ホントお父さん泣いちゃうなんて――」
「……」
「ねえ、ちょっと、聞いてるの? 麻――」
出掛かった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
この子と暮らし始めて一週間が経った。流大のめいめい研を訪れたあの日が遠い過去のように思える。でもまだ一週間しか経ってないんだ。毎日が、毎日が……、とても重苦しく、先の見えない日々が無情に押し寄せている。
この子は私の居ぬ間にいつか――
嫌な光景が脳裏をよぎる。
自らの手でこの世界に区切りをつけるのではないかと、そう考えてしまう。
ふさぎ込む彼女を見ていると、嫌でも、そう考えてしまう。
それだけは絶対に阻止しなければいけない。
でもその方法が一向に思い付かないし、そもそも存在するかどうかさえも分からない。
試しに、〝真美〟と呼んでみたこともあった。
でも彼女に反応はなかった。それを残念に思ったが、同時に少し救われたような気もした。彼女はそれがただのまやかしであることを分かっている。まだ正気を保てていることに安心したのだ。
しかし、事態は進んでいない。まだ何も完結していないのだ。
どうすればいいのか分からず、ただいつ崩れても可笑しくない橋の上で、右往左往する日々を送り続けていた。
「――――ねえ、聞いてるの?」
「……」
「私、明日残業するから、食べるもの大目に買ってきたよ。ちゃんと食べてよね、分かった?」
「……」
ああ、ダメだ。
込み上げてくる。
私はゆっくり彼女の前に膝をつくと、そっと抱き寄せた。
涙は見せたくない。
*
大盛況。
窓口に来る市民の列は途絶えず、電話は鳴りやまない。新人の三輪さんはもうあっぷあっぷで、フォローに回る葉山くんももう限界が来ているようだった。ここは私が窓口に立って人波を捌かなければいけない。手持ちの仕事は沢山残っているのに……。麻龍に残業のことは話しておいたが、極力それは避けたいと思っていた。でもこの調子じゃ本当に残業になりそう。
重い腰を上げて席を立ったその時――。
「桐野さん」
峯田課長だ。
呑気に会議の資料を捲りながら、上目づかいで私を呼び止める。
「はい」
「前言ってた、〝鈴原さん〟の件どうなった?」
その件か。ああ、頭が痛い。
以前、市役所から送った書類の名前が間違っているとお問い合わせのあったおじいさんの事だ。戸籍上は〝鈴原健太郎〟で登録されていたのだが、元の届け出を辿ると〝鈴原建太郎〟だったことが分かり、戸籍・住民登録課の職権で〝誤訂正〟を行うことになったのだ。
そのために目下、決裁文書を作成しているところであり、今日中に課長から捺印を貰う予定だった。
「午後イチには決裁書が出来ますので、その折に押捺いただけますか」
峯田課長は首筋をポリポリと掻いて、手元のカレンダーをじっと見つめた。
「――ああ、午後ねえ。ちょっとまた他所で打ち合わせがあるんだよ」
「そうですか。それでは午前中に仕上げてしまいますね」
「ああ、いいのいいの。いま窓口忙しそうでしょ? 悪いけど桐野さん応援行ってあげてくれない?」
「それじゃあ決裁は――」
「いいよいいよ、ここに俺の判子入れとくから適当に押しといて」
いつもと同じようにさ、そう言い聞かせるような口ぶりだった。
私もその態勢にはもう慣れている。今や罪悪感もない。課長が了しているから問題はない。言い訳を作るのが上手くなっていた。
「分かりました」
私は表情を作らずそう答えた。
昼食は束の間の休憩。
私は新設された市役所の食堂で、新人の三輪さんと昼をともにしていた。
「どう? 仕事は慣れた?」
「窓口業務がまだ慣れないですかね」
「そうね……、あれも〝慣れ〟だからねえ」
「あれも?」
「ああ、いや、気にしないで。こっちの話」
私は香ばしい匂いのするガパオライスを口に詰め込んだ。
「はあ、まあ、でほはぁ……」
「係長、先に呑みこんでください。大丈夫ですよ。窓口も落ち着いてきましたし、急ぐ必要ないですよ」
「え……、ああ」
「ふふ、なんだか係長もそういう所あるんですね。完璧主義のスーパーウーマンかと思ってました」
「アンタねえ……、いい? 食べるの遅い奴は仕事も遅いってよく言われたもんよ。これもいわば完璧主義の一部なの」
「そうだったんですか。じゃあ、私も急いで食べます」
「喉詰めないようにね」
私は紙コップの水を流し込むと、また慌ただしくかっ込んだ。
これも長年の経験による〝慣れ〟ね……、よく考えたらこんなに急いでご飯食べるなんてみっともないもの。でも環境に身を置いてると、それが当たり前になっていくのよ。三輪さんもいつか私と同じようなことを新人に言ってあげるんだわ、きっとね。
「そう言えば、前のおじいさんどうなりました?」
三輪さんが頭を上げる。口をもぐもぐとさせながら、
「ほら、あの、鈴原さんとかいう」
「ああ、今日中に課長から決裁を貰うわ」
「そうですか。これで無事に――って、そうか、本人に説明しないといけないですね」
「そうよ、こっちのミスだったって認めるんだから。何言い出すか分かったもんじゃないわ」
「でも、鈴原さんも自分で間違えた名前を使ってたんですよね。それを今更思い出したように難癖付けてくるなんて――」
「いやいや、でも、気持ちも分からないではないわ。自分の名前ってそれだけ大事なものだから」
私の思い伏せたような顔を、三輪さんは不思議そうに見つめる。
「自分の名前を勝手に決められたらイヤじゃない?」
「まあ……」
「鈴原さんは鈴原さんなりに〝建太郎〟って名前に思い入れがあんのよ、きっと」
「そんなもんですかね」
「そういうもんなの」
彼女は「まあ、そうですね」と半ば自分に言い聞かせるように頷いた。
「あ、でも課長って午後から出張ですよね? 決裁いつ貰うんですか?」
「……預かってんのよ、判子」
「ああ、なるほど」
「そ」
「そっかぁ――じゃあ、今日から名前変わるんですね」
ん?
「鈴原さん、正式に今日から〝建太郎〟さんになるんですね。なんだか不思議な感じがしますね」
当たり前のことにいつしか慣れてしまって、大事なことを見落としてしまう。
過ぎ去っていく日常の中にヒントはあって、見過ごしてしまう時の流れに活路は見出せる。それが地獄の門を叩こうと、天国の橋梁に繋がろうと。一筋の光明を逃してはならない。いまは、いまだけは。
*
その日の残業は身が入らなかった。
興奮と不安が一気に押し寄せ、それを落ち着かせようとする自己とがせめぎ合う。
麻龍を救う方法がこんな身近にありながら私は今まで何をやっていたのか。
ただ本当にやれるのか。
はやる気持ちを抑えてパソコンの画面に向かった。
戸籍表記に係る誤訂正の決裁書――それは〝鈴原健太郎〟さんが〝鈴原建太郎〟に訂正される依拠となる文書であると同時に、本人の申し立てと役所側の事実確認によってのみ〝鈴原健太郎〟さんを〝鈴原建太郎〟に変えられる文書でもある。
つまり、〝麻龍〟本人から名前が間違っていると指摘があって、その出生を辿った私が――本当の名前は〝真美〟であったと言ってしまえば、彼女の名前を変えることができるんじゃないか、ということだ。
決裁に上げる際、出生届や戸籍の写しも一緒に添付する必要がある。そこには間違いなく〝麻龍〟と書いてあるが、課長はそれを確認しないだろう。今日と同じように私に自己決裁を求めるだろうし、私もそういう風に働きかければ不可能ではない。
決裁書の様式を見つめる。
氏名の欄に、一つずつ文字を打っていく。
「 藤……本……、麻……龍……、の申し立てにより、
当該氏名に誤りが認められたため、
藤……本……、真……実……、と改めるものとする 」
これを、あとは課長の判子を使って決裁をとれば彼女は法的に〝真美〟と認められる。胸を張って明日を生きていける。あの子の哀しい顔を見なくて済む。
でもこれは立派な公文書偽造罪だ。
見つかれば懲戒免職は勿論、刑事罰を背負うことになる。
リスクはある。
でもあの子の為なら――身を賭してでもやるべきだ。
そう決めた。
ネーミングライツ・イズ・マイン……、これは名づけ行為を恩賜か何かと取り違え、個人の権利を抑圧してきた日本社会に対するメッセージだ。
名前にも自己決定権がある。
たとえ見つかったとしても、彼女の苦しみを――いえ、自分の名前に苦しむ誰かがこの世にいるということを世間に知らせるべきだ。
その為に私が――――。
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