2-6
名城は麻龍の額に当てた人差し指を放すと一つ溜息をついた。
私は意識もうろうとする彼女の様子を窺った。
「えーと……、麻龍さん? いや、真美さん?」
彼女の眼は虚ろで、まだ焦点が定まっていなかった。
「名城……、改名は成功したの?」
名城ははにかんだ。
「失敗です」
「……失敗?」
何かの間違いだと思った。
名城の自然体の微笑みは成功の予感を匂わせていたからだ。やりきったというような安堵の表情を見せていたからだ。どうしてそんな思わせぶりな態度をとったんだ。
私は〝改名の儀〟が失敗したことに対する焦りと、麻龍の気持ちに応えられなかったやるせなさと、当てつけのような名城への怒りがないまぜになって、倒れるようにふらりと椅子に腰を下ろした。
「千早、私も言ったはず。成功確率は低いって」
「聞いたわよ。でも、じゃあ、なに? 麻龍はこのままなの? せっかく自分の本当の名前を知ったのに……、このまま、また自分の生きたくない世界で生き続けなきゃならないの?」
「また挑戦できる」
「いつなの」
「次の新月の白昼に」
「新月?」
「新月は人体に流れるエネルギーを無に帰す時、全ての流れがリセットされる時。だから名前を改めるのに都合がいい」
私は腕時計を見て今日が新月の日であることを確認した。
「つまり、およそ一か月後ってことね」
「そう」
「川名」
名城の低い声が刺した。
「適当なことを言うな」
二人の間に妙な緊張が走っている。
川名は変わらず無表情のまま答えた。
「どうして? いつもそうしてるはず」
「何の根拠もない。ただデータのみに従ってそうしてるだけだ。今日だって失敗した。新月の白昼に成功するなんて思い込みに過ぎない」
「でも名城は――」
「川名」
名城が睨みを利かせる。
だが川名も負けじと口を開く。
「そろそろみんなの気持ちに応える時」
「なに?」
「千早たちの気持ちは、本当の気持ち。名城が正直になれば――」
「僕が何だって?」
名城が眉間に皺を寄せる。
そして一歩一歩と近づいてきた。
「川名。君は僕との約束を忘れたのか?」
「忘れてない、でも優先すべきことがある」
「優先すべきこと? 僕がそれを最前線でやってるのに、それに勝るものがあるのか?」
「ある」
「川名っ! 君は僕を裏切るのか――っ!」
「待ちなさい!」
私は二人の間に割って入り、川名を庇うように小さな肩を抱き寄せた。
「名城、アンタいま女の子に手を上げようとしなかった?」
名城は固く握り込んだ拳を歯がゆそうに解いた。
「すいません。僕、カッとなって……」
「私だって気が立ってるのに我慢したのよ? 本当ならアンタを殴ってあげたいくらい」
「それならいま殴っておくべきです」
さっきまでの勢いはどこへやら、名城の表情はすっかり気落ちしてしまっていた。こんな状態の彼を殴れば悪人は私だ。
「いいわよ。それより教えて。〝改名の儀〟って何なの?」
「――〝改名の儀〟は名城家が代々執り行ってきた祭祀です。〝
「アンタはその儀式を受け継いでいた訳ね」
「いえ、それはあくまでこれからお話しするある論文に記してあったからです。僕自身は親からそのようなことを伝え聞いたことはありませんでした」
「論文?」
「はい。一年前、偶然この研究室で古い論文を発見したんです――著者のサインはなかったのですが、それは〝改名の儀〟に関する言い伝えとその具体的な方法について書かれてあったんです。内容はこうです。『東経一三九度・北緯三十五度の座標内に特異点は現る――』」
「東経一三九度・北緯三十五度って――」
「この研究所の場所です。続きはこうです。『改名を真に願う者はその名を頭に思い浮かべ、特異点において次の言葉を唱えよ』」
「言葉?」
名城は息を吸い込んだ。
「『ネーミングライツ・イズ・マイン―――命名権は我にあり』です」
全身の毛が総毛立つ。
名城が間を溜めて言ったからではなく、その言葉自身が強い力を持っているような感じがした。
「それ……、前に聞いた言葉よね」
「そうです。個人の人権がしきりに叫ばれる昨今で、人名の命名権まで主張するのは、僕としては少し行き過ぎた要求のような気もしますが――」
「確かに……親のお腹の中にいる胎児が自分の名前を決める権利を主張するなんて……、まあ、でもそれも時代の流れかしら」
「――とにかく、それが〝改名の儀〟について僕の知るところです」
指定の位置で、指定の呪文を唱える。
それ自体としては簡単なように聞こえるが、実際は――
「想像してたより難儀そうね」
「見ての通りですよ。神経を研ぎ澄まして、針の穴に糸を通すように、〝特異点〟を探り当てなければいけませんから。並みの集中力では保たないと思います。でも――」
「でも?」
「難儀ではありません。人間慣れればできないことはありません。まして命の危機がある訳でもなく、何度だってリベンジできるんです――いつか〝特異点〟を当てて、それを何度も繰り返せば簡単に改名できるはずなんです」
「じゃあ、名城はもう慣れたの?」
「……」
名城は何か言い淀み逡巡した。
それは目に見えるほど明らかだった。
「今まで成功したことはあるの?」
「ありますよ」
「一人や二人じゃないんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、今日、麻龍の改名をすることも出来たんじゃないの?」
私は核心を突いた。
川名と名城の間にどんな約束が交わされたのかは分からない。ただ二人の話を紡ぎ合わせれば、そんな事実が浮かび上がってくるのだ。
「……」
「名城、私、聞いてるのよ」
「……」
「川名は今日の成功確率を教えてくれたし、アンタは『データに従っている』と言った。つまり、実績があるはずよ」
「データは論文に残っていただけです」
「でもそこまで言うアンタには〝慣れ〟に相当するだけの経験があったはずよ」
「待ってください」
「何を?」
「いま何を話すべきで、何を話してはいけないのか考えていますから」
名城の眼に正気が戻っていた。
「いい度胸ね、アンタ……、私に隠しごと?」
「名城家の秘密まで教えたんです。これ以上何を欲しがりますか」
「何を欲しがる? 最初からずっと同じ――――麻龍の、この子の幸せよ!」
「もうお引き取り下さい!」
「どうしてよ!」
「千早……?」
振り向くと麻龍が私の服の裾を引っ張っていた。
ようやく気が付いたようだ。私はホッと胸を撫で下ろしながらも、救いを求めるような彼女の視線に心をざわつかせた。
この子、いま私に答えを求めてる――。
私が彼女を何と呼ぶか、それによって彼女の生きる世界は姿カタチを変える。
いま目の前にいる彼女が、〝麻龍〟か、〝真美〟か――。
「千早? そんな顔してどうしたの? 私――」
「行こう、麻龍」
パキっと、折れた心の柱が足下に転がった。
「こんなデマにつかまされた私が悪かった。別の方法、また探そう」
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