2-5
あれから数日、私は何事もなく、名取市内のワンルームで日々の生活を送っていた。
あの時芽生えた確かな殺意は靄のように曖昧に消えた。お母さんはあの出来事をお父さんに話したが、現場を見ていないお父さんに上手く話が伝わらなかったのか、大事にならずに済んだ。のちに、おばさんから事の真相を告げられた。おばさんは本名を〝
そして名が付かぬまま、私は不倫相手である〝浜崎美晴〟と三人で暮らすことになった。そんな家庭状況の最中に名付けられたのが、〝麻龍〟という名前だった。
話を聞けば聞くほど、私という存在が小さくなっていく。
私は望まれた子じゃなかった。この世に存在していてもしていなくても、どっちでもいい存在だった。マロン、なんて適当に付けられた名前がその証拠だった。
でも、これで心置きなく名前を変えられる。
あの時、千早に言われていなければ、私は曖昧な気持ちで名前を変えて、変えた後も特に気持ちの変化もなく、前の名前を思い偲んでいたに違いない。きっと、そうに違いない。
決心がついた。私は、新たな人生を歩んでいくのだ―――――
『続いてのニュースです』
テレビのニュースキャスターが厳粛な面持ちでニュース原稿を読み始めた。
『昨夜未明、須ヶ崎町の海岸沖にて一台の軽自動車がガードレールを突き破り、崖から海に転落したとの110番通報がありました。軽自動車には男性一人、女性二人を含む男女三人が乗車していたと見られています。また、目撃者の情報によると、運転手の女性は飲酒運転をしていた可能性があると見られており、警察は、三人の身元を特定するとともに、事件・事故の両面で捜査を行う方針です――』
嫌な予感がした。
須ヶ崎町は私の実家のある街だ。
その日の夜は眠れなかった。私はその現場にいなかったはずなのに、当時の状況がはっきりと目に浮かんできた。激しく口論する父と母、そして生みの母。たまには酒でもと卓也を誘う元妻・道子、それを聞きつけ激昂する現妻・美晴。
酒の肴に引き合いに出した〝麻龍〟から話が次第に大きくなり、三人は興奮状態になる。道子はこんなところじゃ近所迷惑だと言って飲酒しているにもかかわらず、二人を車に乗せて海岸沿いに連れ出す。
そして、二人を乗せたままガードレールの隙間を打ち破って、海に転落していく。身を賭しても果たしたい道子の願い、それは全て報復のため―――――。
『名取署捜査一課のツネモトです。藤本麻龍さんですか』
「はい」
『先日お話しした転落事故の件ですが。発見された遺体が検査の結果、ご両親であることが分かりました』
「そう、ですか……」
『この度はご愁傷さまです』
「両親は……、二人だけですか?」
『はい?』
「転落した車の持ち主は……? ナンバーから所有者が分かってましたよね。その方は無事なんですか?」
『ああ……、柳川道子のことですか。お気の毒ですが、彼女も昨日遺体で発見されました』
「……」
『でも彼女としては本望だったでしょうね』
私は耳を疑う。死んで本望なんて、電話の奥で話しているのが警察官であることを疑ってしまう。
『彼女は車中でお母様の首を絞めて殺していたことが判明しました。動機は定かではありませんが、まあ、痴情の縺れというやつでしょう。それから実況見分で分かったことですが―――――』
警官が言っていたことは、概ね、私の推測と重なる部分が多かった。
だが、本当の動機を知っているのは私だけだ。おばさんは―――いや、私のお母さんは私を名前の呪縛から救い出したかった。私を〝麻龍〟と名付けた二人をこの世から消せば、私には何のしがらみもなくなる。
改名に伴う唯一の障壁を取り除こうとしたのだ。
母親と喧嘩した日、ヨットから電話があった。
『お、マーちゃん? なんやねん、電話番号変わったんならちゃんと連絡くれよ……ってまあ、そんなことはどうでもいいんやけど。なんか、昨日おふくろにマーちゃんにすぐ伝えてくれって言われたことがあってな?』
「何?」
『なんかな 〝真美〟って名前の子供が欲しかったんやって』
「……」
『色んな世界をその目で見て〝真の美しさ〟を見つけて欲しいから。そう名付けようと思とったんや……ってこれ、どういう意味? なんかおふくろと話しとったん?』
「……」
『そう言えば、おふくろ……、今日スゴイ妙に思い詰めとってな。らしくないな思うて話掛けたら、そない言われたんや。ホンマ口を開けば、マーちゃん、マーちゃんって嫉妬するわ。実の子よりマーちゃんが気になるみたいやわ。だからやぁ、年に一回と言わず、頻繁に帰って来たってくれや。な?』
そして、あのニュースを見た。
真の美しさを求める、真美。
これが私の本当の―――――。
*
「―――――私の名前」
力強い眼差し。涙はとっくに引いていた。
「私、〝真美〟に生まれ変わりたい」
覚悟と決意。麻龍を捨てて生きる覚悟と、新たな人生を歩む決意。
その両方が彼女の双眸に宿っていた。
私は黙って頷き、名城の方に向いた。だが、掛ける言葉はなかった。何を言わずとも、麻龍の気持ちは彼にも届いていると思ったからだ。私はじっと彼の言葉を待った。
「……分かりました」
名城はそう言うと、回転椅子をコロコロと麻龍の前に転がして来た。
「お座りください」
ついにこの時がやってきた。彼女に相談を受けた日から、幾月が経っただろう。まさか、こんな形で彼女の悩みを解決ことになるとは思わなかった。法的措置によらなければ、なす術はないと思っていた。でも、諦めなければ、いつか道は開ける。前に進むことで見える景色がある。後戻りはできないし、引き返すことはできないけど、前に進まなければ見えない景色がある。あの日、思い切ってこの研究所のドアを叩いて本当によかった。
「千早さんもよく聞いてください」
私は短く頷く。麻龍は真剣な表情でじっと名城を見つめている。
「これから僕の手で貴方の〝改名〟を行います。しかし、それは法的措置によるものではありません。超自然的な方法によって行います」
「超自然的?」
「私が〝ある行為〟を行った後、数秒もすれば――貴方を取り巻く世界がカタチを変えます。この世界に生まれ落ちた瞬間、その初めから〝麻龍〟ではなく、〝真美〟であったようにカタチを変えるのです」
「本当にそんなことが……」
「何より貴方自身がそれを信じなければ何も始まりません」
「わ、分かりました」
「〝改名〟とは文字通り〝名を改める〟行為です。この言葉が表すように、名前は新しく書き換えられるのであって、過去の名前が消えて無くなるわけではありません。なので、絶対に過去の自分を否定してはいけませんし、過去の自分の名前を忘れてはいけません」
「否定しない……、忘れない……」
「そうです。これから真美さんとして生きていけるのは、それまでの麻龍さんの存在があったから。文字を書くのも読めるのも、手を振って走ることができるのも、友人と笑って話が出来るのも、全ては麻龍さんがいたおかげです。それを忘れないでください」
「……分かった」
麻龍は強く頷いた。
「では、いきますよ」
そう言うと名城は麻龍の額に親指をぐっと押し付ける。麻龍は目を瞑って体をビクつかせる。
「ちょっと待って! 名城……、何するつもり?」
私は思わず彼の腕を掴んで、素っ頓狂な声を上げる。
っていうか、いまのSFみたいな話を信じろってのが可笑しいでしょ!
「千早、邪魔しないで」
川名が険しい顔をして私の腕を引き剥がす。
「待ってよ。まだ何も具体的なことを聞いてないから……、麻龍だって怖がってるし――って、麻龍?」
見ると麻龍は日本人形のような虚ろな目でじっと固まっていた。名城の親指一点に体重を預け、ぼんやりと彼の顔を見ていた。
「千早、名城の邪魔をしないで。いま名城が特異点を探してる」
「特異点?」
「〝改名の儀〟を行うには対象者が〝特異点〟と呼ばれる特別な座標にいなくちゃいけない」
「その座標はどこにあるの?」
「特異点は日々わずかに移動しながら、範囲を自由に変える。めいめい研のあるこの教室はその特異点が現れやすい場所」
「現れやすい……って現れない場合があるってこと?」
「そういうこと。だから今ここで改名が成功するかどうかは、名城にも分からない」
名城は親指を微かに動かしながら、麻龍の頭の位置を微調整している。その真剣な眼差しは職人さながらに、私の心に訴えかけてくる―――必ず改名させるという熱い思いが。
「研究データによると午後12時25分から12時45分の間に特異点は現れやすい」
私は柱の掛け時計をちらりと見やる。時計の針はちょうど12時半を指していた。
「天候は快晴、気温23℃、風は東向き微風……、同一の条件に当てはまる成功確率は……0.5%」
「低っ!」
「比較的高い数値」
私はギュッと拳を握り、名城と麻龍の様子を見守る。
どうか成功しますように……、こんな時に神頼みなんて、研究データを信じて真剣に取り組んでる名城に悪いけど、私には今こんなことしかできないから……。
固く目を瞑る。
名城が何かを呟く。
そして、ゆっくり目を開けた―――――
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