2-4

「ほんで家飛び出してきたん……? マーちゃんも青いなあ」


 おばさんは煙草の煙を吹かしながら、手酌で注いだグラスの梅酒をぐいっと煽った。


「青いなんて言わないでよ。私、もう三十なんだから」

「青い青い。三十なんてアタシからしたら、まだまだガキンチョや」


 軒先の草むらからチチチと虫の音が鳴っている。


「マーちゃんも、敏郎も、昔と何も変わってへんわ」

「ヨットと一緒にしないでよ。アイツ、今日も私口説きに来てたし」

「ほお? それで? マーちゃんは何て答えたん?」

「別に。適当にあしらったよ」

「ほうら、アタシの言った通りやんけ。アンタら昔と何も変わっとらん。お互いの気持ちに素直じゃない……なんて言うたらクサいけど、青いって要はそういうことやろ」

「もう……、やめてよ」

「アッハッハ、拗ねんといてえな。からかっただけや、からかっただけ。こんな歳にもなると若者イジるくらいしかおもろいことないんや。敏郎は男のくせにツマらんからな。たまに訪ねてきた自分のを可愛がったっていいやないの」


 おばさんは敏郎ヨットの実母で、小さい頃からよく私の面倒を見てくれた。私は当時から母と仲が悪く、家にいると息が詰まりそうだったので、まっすぐ家に帰ることはなかった。その代わりに、ヨットと遊ぶという名目で彼の家に行くと、よく彼の母親とおしゃべりをした。おばさんはいつも煙草を咥えて、昼からお酒を飲んでいた。大人になった今にしてみれば、ウチの母親よりよっぽど毒親のように思える。でも、おばさんの言葉には滲み出る人徳があり、考えも価値観も薄っぺらい自分の母親とは雲泥の差があった。


「で、どうすんの? 仲直りするつもりはないん?」

「仲直り? それって元々仲が良かった人同士がするものでしょ? 私とお母さんはそういう深い仲じゃないから」

「そう卑屈にならんときいな」

「別に卑屈になってるつもりはないけど」

「アタシからしたら十分に卑屈に見えるで。それもマーちゃん一人が嫌ぁな女に見えるわ」

「なんで?」

「話聞く限りやとお母さん何も悪いことしとらんやん。ただマーちゃんが思春期を拗らせんてるようにしか見えへんて」

「何も今日突然怒ったわけじゃないって。今までの蓄積があって、遡れば今まで色んなことがあって、それが偶然きょう爆発したってだけ」

「ホンマにそうやろか」


 おばさんは煙草の火種をガラ入れで揉み消し、大きく息を吐きだした。微かに臭う煙の香りが鼻腔をくすぐる。


「どういう意味?」

「そもそも、マーちゃん、今回は何のために帰省してきたん? ただの気晴らしってわけやないんやろ」

「気晴らし……だよ」

「嘘やね。転職活動が上手く行ってないんは話に聞いてるけど、それだけが理由じゃないやろ」

「なんで転職のこと……!」

「マーちゃんのことなら、おばさん、なあんでも知っとるよ」


 良いことも悪いことも、褒められることもそうでないことも、おばさんは私に関することは昔から何でも知っていた。


「で、なんで帰ってきたん?」

「……」


 私は言い出せなかった。親に貰った名前が今更恥ずかしくなって、その名前を変えたいから、最後にその由来を聞きに来たなんて。冷静になって考えてみれば恥ずかしい話だ。話せばおばさんは笑い飛ばすだろうと思った。そうなったら気持ちが揺らぎそうだったから言い出せなかった。


「言いたくないことなんやな」

「……」

「じゃあ、黙って聞いとってな」

「……?」

「おばさんな、昔、寄り合いの飲みの席でマーちゃんのお父さんに聞いたことあるねん。〝麻龍〟の名前の由来」


 心臓が跳ねた。なんでおばさんがそれをお父さんに訊いたりしたの? 高ぶる拍動に任せてそう言ってやりたかった。でも今はそれを言う訳にはいかなかった。


「お父さんも酔っ払っとったでな、つい本心を言ってまったと思うんやけど」

「……」

「……別に、

「……え?」

「由来、無いねんて。嫁とノリで決めたんやて。そう言っとった」


 おばさんは乾いた笑みを浮かべて、グラスに口を付けた。目を大きく見開き、グラスの底から私の表情の移ろいを確認していた。


「ノリ……?」

「なあ? あの人、麻雀好きやったから。その度合いが過ぎてたんやろな。でもアタシもそん時はすごい頭に血が上ってもうて、アンタの父親を罵倒しまくってもうた。あの時は皆、酔っ払いの痴話喧嘩くらいに思とったんやろうけどね。アタシはマジやったし、あの人もちょっと真剣になっとった。でもあれからマーちゃんの話をすることはのうなったよ。アンタも大きなって、自立しとったでね。それも自然と言えば自然やったけども」


 そんなことがあったなんて知らなかった。そう言えば、ウチの両親は、私がおばさんの元を訪ねていることを知っていたはずなのに、挨拶の一つどころか、直接話をしているところを見たこともない。今思えば、過去にそういうしがらみがあったからだったのだろうか。


「それいつ頃の話……?」

「なんや、黙って聞いとくんやったんちゃうん?」


 私はハッとなって目を反らした。


「昔の話やでな。気にせんといてえな。結局、マーちゃんが何で帰ってきたんか分からんけど、アタシには関係ないわな」


 そう言っておばさんはグラスに残った温いビールを庭先の花壇にかけた。涼し気に鳴いていた虫の音が途端に聞こえなくなった。




「ただいま」


 私はポツリと呟いて、玄関のドアを後ろ手で閉めた。

 パチンと音がして、玄関照明が上から私を照らす。


「マロン……、どこ行ってたの?」


 母が框の上から冷たい目で私を見下ろしていた。


「どこって、別にどこでもいいでしょ」

「せっかく帰ってきたのに、外ほっつき歩いて。あなた本当にいい母親にならないわよ。こういう時はね、親は少しでも子供と同じ時間を過ごしたいものなの」

「なんでそんなこと言われなきゃいけないの? お母さんだって昔はビーチばっかり行って全然構ってくれなかったじゃん」

「あなたね、自分のしてることを棚に置いて、お母さんの悪口を言うなんてイジワルが過ぎるわよ」

「棚に置いてるのはどっち? お母さんの方でしょ!」

「何を偉そうに……っ!」


 母の平たい手が私の頬を打つ。痛くはなかったけれど、私の心には確かに痕が残っていた。ジンジンと腫れて、血が滲む。痛い、痛い……。


 私が顔を上げて彼女を睨み返したその時、母の表情がさらに急変した。ウサギみたいに鼻をしきりにヒクつかせていた。


「煙草の匂い……、あなた、またの所に行ってたのね! どうして……?」


 激昂した母がまた腕を上げて振りかぶる。


「マロン! あの家には行っちゃダメって言ったでしょ!」


『ココア! あの部屋には入っちゃダメって言ったでしょ!』―――――偶然にも今朝、母がペットの飼い猫に掛けた言葉が重なった。


 腹の奥底から湧き上がる黒い感情が一気に私を侵食する。この人達のせいで私の人生はめちゃくちゃになったんだ。この人達がお遊びで付けた名前のせいで、私は苦しんできたのに。いま目の前にいる母と、その陰でのうのうと惰眠を貪り尽くす父が、私の一度きりの人生を泥中に沈めたんだ。


 こんな名前さえ付けられなければ、親族も、友達も、社会も、私を蔑むことはなかったのに……!


 この二人が、私を……っ!


「やめとき」


 不意に背後から腕を掴まれ、私は手にしたを力無く放した。


「……おばさんっ!離して!」


 おばさんは床に転がったアイスピックを外に蹴り出すと、私の耳元でしゃがれた声を出した。


「そういう訳にはいかんわ。ロックでまた煽ろうと思うたら、ピック無くなっとるもんで、気になって来たらこんなことなっとる。簡単に離すわけにはいかんな」

「こんな奴ら! 私の人生に要らない! 全部こいつらのせいなんだ! こいつらさえいなければ、私は……っ!」

「滅多なことは言うもんやない。ココでマーちゃんがお母さんらを殺したところで、何にも変わらん。そうやない?」


 おばさんに諭されながらも、私はどうやってあの女の首根を刺してやろうかと考えていた。


もエラい目に遭うとこやったね」


 母は怯えた目をしていたが、次第にその目は蔑むような目つきに変わっていった。


「吉井さん……、あなたがこの子をけしかけたんでしょう」

「は?」

「今日だって、この子……、あなたの所に行っていたんでしょう? いや今日だけじゃない。昔からあなたの元に通い詰めてた。でもそれって変じゃありませんか? 友達の家とは言え、小さい女の子が頻繁に男の子の家を訪ねるわけないじゃないですか」

「それは……」


「私から、


 おばさんが私の耳元で生唾をごくりと飲み込んだ。


「その子に何を言ったか分かりませんが、その子をけしかけて私や夫を殺すよういざなったんじゃありませんか?」


 私の腕を握る手が緩む。おばさんはそのまますっと私の肩に手を回して言った。


「美晴さん」


 そして母に向かって力強い口調で言い返した。


「この子はアタシが必死にお腹を痛めて生んだ子や。大事なひとり娘を殺人犯なんかに仕立てあげるわけないやろ」


 おばさんが、私の母親……?

 頭の中でぐるぐると回る彼女との記憶が、パズルピースのように一枚の額縁に当てはまっていく。彼女が私を見る目には親心があった。彼女が差し伸べる手には愛があった。彼女は私を……、〝娘〟と呼んでいた。


「いずれにしても、このことは夫に話します。殺人未遂には変わりないんですから」


 そう言って踵を返す母が遠くに消えていく。

 そして去り際にこう言った。



「マロン、アンタにはが足りなかったのね」


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