2-3
「麻龍、その格好……」
「遅れてごめん。さっきまで葬式に出てたの」
彼女は単調な声色で答えた。しかし、その声は必死に込み上げる涙音を堪えているようにも聞こえた。
「葬式って、誰の……?」
私は恐る恐る尋ねる。彼女は表情を崩すまいと震える唇を必死に結んで、目に涙を滲ませた。
「お父さんと、お母さんの」
頭が真っ白になった。
彼女は先週、両親の家に行くと言ったはずだ。それがどうしていま二人の葬式に出ることになる? 実家に帰った彼女に何があった? 名前の由来を問うただけじゃないのか? なぜ、そんなことに……?
彼女はその場にへたり込んで泣き崩れる。
私は彼女の側に駆け寄り、膝をついて背中をさすった。筋張った背骨が手の腹をごつごつとなぞって、死人みたいに体温のない冷たい体をこすった。嗚咽を漏らし、引きつけのようなひどいしゃっくりを繰り返すたび、大粒の涙が床の上を跳ねる。
しばらくして落ち着きを取り戻した彼女は事の次第をとうとうと語り始めた。
*
私の実家は市内から海岸沿いを南に行った小さな港町にある。
町の中心部から車で三十分は掛かる最寄りの駅に到着し、海岸通りの環状バスに乗り換える。窓枠の景色にヤシの木が移ろぐ。波障壁と互いに組み合わさるテトラポットが岬の先まで伸びて、ゆらめく海面がぶつかって白波を立てていた。
「マーちゃん?」
不意に後ろの席から声を掛けられて振り返る。
「マーちゃん、久しぶりやんけ。なに、帰って来とったんなら言うてえや」
白いタンクトップに浅黒い肌、首からぶら下げた金のネックレスが眩しく光る、筋骨隆々とした男。私は馴染みの男の顔を見て頬を緩ませた。
「ヨットの方こそ……、久しぶりじゃん」
「うっわ、恥っず。俺のことそのあだ名で呼ぶンもうマーちゃんだけやで」
「そうなの?」
「そうや。皆こっから出てったやろ? そしたら長いこと会わんようになったやんか。人間長いこと顔見せんかったら、呼び方まで忘れてまうんやろな。いや、覚えとっても今更恥ずかしくて呼べんのやろうけどってナッハッハ……!」
ヨットは豪快に笑った。
「でも、マーちゃんの方はみんな呼び方変わらんなあ。男子も女子も今でもここいらの奴らは、みんなマーちゃんマーちゃん呼びよるな」
「そういえば、そうだね」
たまに実家に帰ってくると必ず地元の寄り合いが開かれた。その時、老若男女構わず皆が口にするのは〝麻龍〟ではなく〝マーちゃん〟だった。〝麻龍〟と呼ばれるのはここから遠く離れた学校の仲間からだけだった。
「ヨットはなんでヨットなんだっけ?」
「忘れてもうたん? これ何度も言うけど、マーちゃんが最初に呼び始めたんやで」
「私が?」
「こんな大事な話や、忘れんとってえな。まあ、そういう所、マーちゃんらしいと言えば、らしいけど」
「てかゴメン。本名何だっけ?」
「おぉい! そらないわ!
「ええ、そうだっけ?」
惚けた私に、ヨットは溜息を吐いて肩を落とした。
「でも、しゃーないっちゃ、しゃーないか」
「なんで?」
「俺、この話酔った時にしかせえへえもん。自分が気分いい時にしか話さんからな」
「……バカじゃない?」
私は昔、この男に言い寄られていた時期があった。正確には小さい頃、この男を慕っていた私が成長とともに彼の元を離れていき、手放しがたく感じた彼が言い寄ってくるようになったのだ。だから、昔、あだ名を付けてやったことを今でも昨日の思い出のように語り、自分の記憶から私を消さないようにしている。
別に悪い男じゃないし、馴染み深い仲ゆえに、その気にさせるまではいかないでも、彼のアプローチを好意的に受け取っている素振りを見せて、上手いこといなしていた。
「でも、マーちゃんはマーちゃんよな。ホンマに」
「改めて何よ」
「だから、ずーっと呼び名が変わらへんねんて。こんな年になっても不思議なもんやで――」
もしかすると、皆は呼びたくないのかもしれない。
〝麻龍〟なんて、奇怪な名前。街に近い高校や大学でこそ通じた名前かもしれないが、〝マロン〟という名前は田舎町の人間には馴染みにくかったのかもしれない。ともすれば、自分たちの町に流れ込む都会の急流を閉ざしたかったのかもしれない。本名ではなく、あだ名で呼び続けることで。
あまりに話が飛んでいると思うだろうが、今の私はそこまで卑屈になれるほど心が荒んでいた。
私はヨットに適当な挨拶を交わし、寄り合いの誘いを適当に躱し、バス亭に下りて実家のある方へ足早に向かった。
実家は白いウッドフェンスに囲まれた芝生の庭を望む、欧風な外見をしている。屋根は昔ながらの山型じゃなく、スッキリとした平べったいフラット屋根。白い塗り壁には一艘のボートとサーフィンボードが掛けられている。海が見えるならどんな立地でもいいと父が選んだのが、この海岸沿いの中古物件だった。
昔ながらの瓦屋根が軒を連ねる古民家郡の中にあってはとても奇抜に見える。以前の持ち主も相当の数寄者だったらしく、町の人間と折り合いがいかず、何も言わず半ば夜逃げのように出て行ったらしい。不動産屋が冗談交じりに私の父も負けず劣らず変わった人だと言っていた。私はそれが悪口にしか聞こえず、父も母もなぜそれを笑いながら聞いていられるのか全く分からなかった。
「あら、おかえり」
玄関を開けると母が、大事そうに飼っている猫を抱えようとしていた。
「ココア! そっちの部屋は行っちゃダメって言ったでしょ?」
〝ココア〟と呼ばれるその猫は母の手を離れて奥の部屋に走っていった。その後を眺めていた母がふうと溜息をついて私に振り返る。
「マロン、帰ってくるなら一言言ってくれればいいのに」
「急に思いついて。ごめん」
「なあに? 寂しい顔しちゃって。なにかあった?」
「ううん。特に」
「変な子ね。ま、とりあえず中上がりなさい。お母さん、最近スムージー作りに凝ってんのよ。飲むでしょ? マロンも好きよね、スムージー」
キッチンの方から野菜や果物の青臭い匂いが漂ってくる。母はまだ作り方を覚えたてのようだった。
「お父さんは?」
「仕事……じゃない? たぶん」
母の曖昧な物言いが妙に気になり、私は母に詰め寄った。
「たぶんってどういうこと?」
「お父さん、また最近事業を一つ潰してね。小見川のほとりでやってたアクテビティの仕事、経営が上手くいかなくなって――それで当面の間、漁協から廃棄物処理の仕事貰ったって聞いたんだけど、どうも顔出せてないみたいなのよ」
「そんな適当なことでいいの? 仕事なくなったら生活できなくなるんでしょ? ここにだっていられなくなるし」
「それはマロンが心配することじゃないでしょ」
「どうして? 家族のことを心配するのは当たり前でしょ?」
「……もうっ! いつからそんな聞き分けの悪い子になったの?」
咄嗟に大声で言い返したい衝動に駆られた。駄目だ。これ以上、母と話していると手が出てしまいそうだ。私は母から目を反らして、リビングのソファに腰を下ろした。
「どう? 飲む? お母さん特製のスムージー」
そういってグラスに並々と注がれた緑色の液体を差し出した。やはり漂ってくる青臭いものの正体はコイツで、何を参考にしたのか、ぷくぷくと粘質のある気泡が浮いていた。
「要らない」
「つれない子ねえ」
「お母さんの子だよ」
「私はそんなつまらない女じゃなかったわ。今もこうしてお父さんの気まぐれに付き合って辺鄙な場所にまでついてきてるんだから。私の人生波乱万丈よ、冒険ばかりしてきたわ」
「――そんなどうでもいいことが、お母さんの中での冒険なの?」
「どういう意味?」
母の声が少し低くなった。
「こんな変わった家に住んで、町の人から白い目で見られて、それでもお母さんはお父さんについてきて良かったって思うの?」
母が顔色を変え、口を開いたその時。
「……あ、コラっ、ココア! そこでシーシーしちゃ駄目って言ってるでしょ!」
飼い猫がカーペットの上で放尿をし始めた。慌てて雑巾かタオルか分からない布切れを持ってきた母がそれを濡れた場所にあてがう。主人の苦労など知らないココアは颯爽とリビングを出て行った。
私は困った母を見て居心地が悪くなり、思わず声を掛けた。
「……なんか手伝おうか」
「…………」
「お母さん?」
「……いい。慣れてるから。あの子はね、すごく手が掛かるの」
その言葉はまるで私に掛けられた言葉のようだった。もしくは、ダブルミーニングでそう言ったのかもしれない。含みを持たせた言い方をして私に些細な仕返しをしようとしたのかもしれない。だけど、全てが『かもしれない』だ。母の本当の気持ちは分からない。だからいつも敢えて感情を表に出すことはなかったのに、この時ばかりは溢れる気持ちを抑えられなかった。
「そんな言い方しなくていいじゃん!」
「マロン……?」
「もう……っ、ウンザリなの! その名前! 私とあのココアとかいう猫と一緒にしないでよ! 私はアンタ達のペットじゃない! 人間なの! 友達がいて、生活があって、色んな思い出を記憶する、生きてる人間なの! だから……、その名前で呼ばないでよ!」
……そう、言ってやりたかった。
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