2-2
「〝乃〟という字は〝及〟のなりそこないだと伺いました。だから名城さん……、私はなりそこないなんです。何者にも及ばない欠陥品なんです。あなたが私の立場だったら分かりますよね……。漢字が持つ、運命をも変える力に気づいている貴方なら、こんな名前耐えられないでしょう……」
目じりの小じわが目立つその女性は、もじもじと左右の親指をこすり合わせながら俯きがちに言った。
「
「冗談はやめてください。貴方は字学に造詣が深いお方だとお聞きしています。それは博識のある者の言葉とは思えません。真面目に答えてください」
右腕に何重にもくぐらせた数珠をチラつかせ、胡散臭い雰囲気を漂わせる女性は続けて言った。
「しかも、八重にも重なる〝乃〟です。人間であることを否定されているようなものです。ああ、恐ろしい。私は五十年もこんなおぞましい名前を付けていたかと思うと……、死にたくなります」
「そこまで悲観なさることはないと思います。近年、名付けの最前線では〝乃〟という字がとても好まれていて、新生児の名前ランキングでは必ず上位に上がってくるほどです。人名に当てる〝の〟という漢字をいち早く発見なさった。ご両親には時代の先を見通す、先見の明があったように思いますが」
「最近の若い方たちが自分の子供にこの漢字をあてがっているのは知っています。だからこそこの字の意味を知らないことが哀れで滑稽だと思うんです。私の両親が、どうして、こんな字を見つけてきたのか……、それは分かりませんが」
「ご両親に自分の名前の由来について聞いたことは?」
「ありません」
名城は深く溜息をついた。
「八重乃さん、今日の所はお引き取り下さい」
女性の目が一瞬で血走る。
「私に明日も八重乃のまま生きろと言うんですか?!」
「貴方は生まれた時から、生涯を全うされるまで、八重乃さんのままです。親から貰った大事な名前を簡単に変えられると思わないでください」
「死ぬまで……? なんてことを……っ! それは私に死ねと言っていることと同じなんですよ!」
「お引き取り下さい」
名城は落ち着いて答える。
「川名」
そう言うと、傍で本を読んでいた川名が片手に本を持ったまま研究所のドアを開け、女性の方をちらと見やって退出するよう促す。
「名城さん! 考え直してください! 私はこんな名前のまま生き恥を晒したくない!」
「八重乃さん、お引き取り下さい」
「命名師の先生にもお願いしました! 〝乃〟はすぐにでも取り去った方がいいと! お願いです! 名前を変えさせてください……っ!」
彼女は突如その場に膝をついて、手を床に、頭をこすりつけた。その拍子に右腕に身に付けた数珠が破砕し、破片が散らばる。
「お金もあります……! 残り少ない人生、自分の思うような生き方をさせてください……!」
嗚咽を漏らし、悲鳴交じりに名城の足にすがりつく。
名城はそれを黙って見下ろし、やがて彼女の体を起こした。
「ご自身の私利私欲のために改名できると思わないで頂きたい。どうぞお帰り下さい」
ドアが閉まる最後まで「訴えてやる、訴えてやるぅ~」と喚いていた女性だったが、去り際に川名に「さよなら」と冷たい一言を言われると肩を落とし、鼻をすすりながらその場を去っていった。
張り詰めた空気がふっと緩む。一部始終を見ていた私は胸を撫で下ろした。
「さっきの人、凄かったわね」
「ココに来る方は皆さんいちど話すとあんな調子ですよ。〝名前〟を命の次に大事なものと考えているんです」
「命の次に……」
「漢字文化圏の国は他の国と比べて〝名前〟に強いこだわりをもっています。日本の〝戸籍法〟もその一つです。まるで工場の製品にシリアルナンバーでも付けるように、国民それぞれに音と文字をラベリングする。音に制限はありませんが、その代わり文字には常用漢字と人名用漢字を合わせた三千字の中からしか選べないようになっています。いつか消えて無くなるお金や名声よりはよほど価値があると思う人も世の中には多いんです」
さっきの女性はともすれば、命より大事なほど名前に執着しているようにも見えた。人それぞれ価値観が違うのは分かるが、彼女の場合、自分の本当の気持ちに素直でないようにも思えた。
「最近、ああいう相談者が増えました」
「どういうこと?」
「半狂半乱のイタい相談者」
川名がポツリと答えた。
「川名!」
慌てて名城が制す。
しかし、川名の言葉は言い得て妙だった。何とも言い出せずにいると、私の考えに気が付いた名城が優しく言葉を掛けてきた。
「あ、いえ、千早さんのことを言ったんじゃないですよ」
「それは分かってるけど、ああいう相談者が多いってどういうこと?」
「最近、街の命名師に聞いてココを訪れる人が増えてるんです。きっとこの研究所の存在を疎ましく思っている方が下手な噂を流しているんですよ」
「そういえば、さっきの人、腕に凄い数珠を巻いてたわね」
私は部屋の隅に残っていた数珠の破片を取り上げて光に透かして見る。元々なのか分からないが、内部に刺さる亀裂に白い光が染み込んでいた。
「信心深い方なのでしょう。命名師に話を聞いたという人は揃って皆さんその数珠を腕に身に付けています」
「へえ……」
「『怪しい命名師、組織崩壊を企む害悪分子、名前で人を操る恐ろしい魔物』」
川名がボソボソと呟いて、お馴染みのリングノートに書き殴っていく。
「それはそうと……、もうすぐですか」
名城が時計を見る。時刻は午後5時に差し掛かろうかという所だった。
「本人がその気ならね」
私たちは麻龍が来るのを待っていた。
先週、あの子は親のいる実家に帰り、自分の名前の由来を改めて問うてきたという。曰く、親の話も名前の話も全部まとめて話したいから、直接、命名研究所で会おうということだった。
電話口で話す彼女の声は寂しく、時折鼻をすする声もあったが、言葉の端々に決意の表れがあった。もしかすると本人の望む結果にならないかもしれないが、彼女の中で腹に決めたことがあるのだろうと思った。彼女の意を汲んで、私はそれ以上突っ込んだ話をせず、約束の今日まで泰然自若としていた。
「いつまでもいい加減な子だと思ってたけど、こないだ電話で話した時のあの子はいつもと違った。ちょっと心配になるくらい」
「初めて自分と向き合ったのかもしれないですね。名前は自己の鏡のようなものです。自分の生い立ちや、生き方を、名前というレンズを通して見つめ直したのかもしれません」
「そういうものかもね」
私と名城が話していると、突然、川名が席を立つ。
「……来る」
「来るって?」
「相談者」
アンタは犬か。
「ゆっくりとした足取り。若い女の人。迷いはない」
「麻龍さんでは?」
「そう、でしょうね」
ドアの開く音とともに私たちの視線がその先に集まる。姿を現した女性は私の待ち望んでいたその子だった。
「藤本麻龍です」
しかし、いつもと装いが違った。肌を露出させた普段の陽気な格好とは違う。ファッションスタイルが変わったわけじゃない。それはいつの世も変わらぬ装い。彼女は―――――喪服を着ていた。
深く、深く、お辞儀をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます