弐、名を問えば

2-1


 午後八時、明々とした事務所と対照的に外はすっかり暗くなっていた。ようやく仕事の目途が着いた私は帰り支度を済ませ、他の課を見渡す。私と同じ管理職足掛けのような職員がまだ必死に仕事に打ち込んでいた。

 いつも同じ時間に退庁していた職員もいるけど、私、今日は早めに出ないといけないのよ。私は残っていた職員に「お先」と声を掛け、足早に庁舎を後にした。


 JR名取市役所駅まで徒歩五分、その道中に最近話題のお店がある。名取ゴーゴーヴァモスのメインサポーターである老舗の洋菓子舗〝櫻良屋さくらや〟が新たに創設した新ブランドの旗店、その名も〝キャン・デ・メルツ〟――同名のソフトキャンディを専売としており、その新進気鋭なプロモーションから、連日、テレビや雑誌の取材が絶えない人気店である。



「〝M3〟を10個ください」

 

 ようやく順番が回ってきてカウンターの店員に注文をする。

 キャン・デ・メルツは、バニラビーンズの爽やかな風味を残しながら口の中で雪のように溶ける新感覚のソフトキャンディで、溶けやすさによって順に〝M1〟から〝M10〟まで分類されている。M1が一番溶けやすいので、M3はまあまあ溶けやすいくらいになる。M1は口に入れると一瞬で溶けてしまい、風味など感じないまま、液体と化す。初めて買う人は面白がってこのM1を注文するが、じっくり時間をかけて溶けていく方が美味しいことに気づき、徐々に等級を上げていく。M10を注文する人などは相当の玄人で、最早、キャン・デ・メルツでなくてもいいんじゃないかとさえ思えるが、『漫然の刹那に味覚を刺激させられるんだよ』とM10信者の峯田課長はそうのたまっていた。


 相手の店員は笑顔で「常温でよろしかったですか?」と尋ねる。


「常温で」

「かしこまりました」


 店員は懐から箱詰めされたキャン・デ・メルツを取り出すと、それを手慣れた手つきで包装紙を巻いていく。オシャレな花柄の紙袋にそれを詰めると、私の前に差し出した。私は代金を渡して、それを受け取る。「またのご来店お待ちしております」と丁重に頭を下げる店員に軽く会釈をして、店を出た。


 夜は更けているがいつもより早く退庁してきたのは、家に帰って観たいドラマがあったからじゃない。


 ココに来なくてはいけない用事があったからだ。


 私はインターホンを押して、ペンキ塗りたてのスチール製ドアの前で彼女が出てくるの待った。ややあって中から物音が聞こえてくる。ドアチェーンを外す音が聞こえて、彼女が顔を見せた。



「おはよう、麻龍」

「…………なんの用?」


 麻龍はいかにも寝起きといった様子で不機嫌そうに私を見つめていた。


「ちょっと話したいことがあって」

「また相談所で聞いた話?」

「違う。別の方法が見つかったのよ」 

「別の方法? なにそれ」

「いいから、とりあえず中で話をさせて」


 彼女は家の中を振り返って顔を歪めた。


「ダメ。家ん中、いま汚い」

「なに言ってんの。私相手にそんなの気にしたことないでしょ」

「ってか、いま人と話したくない」

「また落ちたの?」

「落ちてない。そもそも最近受けれてないし」


 月明かりに照らされ、彼女の顔が露になる。落ちくぼんだ眼がくっきりと陰を映した。


「ちょっと……、アンタ最近ご飯食べてる?」

「正直、食欲ない」

「ちょうど良かった。さっきコンビニでおにぎり買ってきたから、コレ食べな」


 実は自分の夜食用に買ってきたものだが、こんな様子の彼女を放って見過ごすわけにはいかない。


「あと、キャン・デ・メルツもあるし。アンタの好きな〝M3〟」


 彼女の表情が微かに明るくなる。

 私は目の前にキャン・デ・メルツの紙袋をチラつかせ、食欲で屈服させた彼女の背中を押しながら、家の中に入っていった。



「―――それで別の方法って?」


 コンビニのおにぎりをあっという間に平らげると、麻龍はようやくまともに口を開き始めた。私たちは小さなローテーブルを挟んで、正面に向かい合った。


「こないだ流大に行ってくるって言ったでしょ?」

「言ってた。なんか変な噂聞いたって言ってたっけ」

「そうそう。〝命名研究所〟っていう、名前に関する研究をしてる所があるって聞いて行ってきたのよ」

「でも流大にそんなところあった?」

「G棟ってあったでしょ。あの人文学部の教室があるとこ」

「あったねえ、ちょっと坂のぼった奥まったとこにある、あの建物でしょ? 確か、外国語の授業とかあの棟でやってたんじゃなかった?」


 そう、G棟は私と麻龍が中国語の授業で初めて会った場所。偶然にも、私はまたあの建物に足を運んだことになる。


「G棟の五階ってほとんど行ったことなかったけど、あそこの一室にあったのよ」

「五階ってそれこそ人文の教授とかが使ってる部屋しかなかったもんね。で、そのメーメー研究所?ってところで何を聞いてきたの?」

「……聞いて驚かないでよ?」


 私は姿勢を正す。


「名前を変える研究をしてるらしいの」


 麻龍はキョトンとして聞き返した。


「どういうこと?」

「だから、自分の好きな名前に変えられるのよ。私もまだ詳しい方法は聞いてないんだけど、法律とかそういう方法に頼らないで、アンタの〝麻龍〟って名前も変えられるの」

「なんでそんなことができるの?」

「分からないけど、人知れず名前を変える、って言ってた。それからアンタに伝えて欲しい言葉があるって」

「……?」

「ネーミングライツ・イズ・マイン―――――命名権は我にあり」


 私は名城の言った通りの言葉をそのまま伝えた。


「名前を付ける権利は親でも兄弟でもない、他ならぬ自分にある……っていう意味みたい」


 私は麻龍の様子を伺う。彼女は瞬き一つせず私を見つめ返していた。


「麻龍?」

「…………」

「ちょっと? 麻龍?」

「…………」

「ねえ、ちょっと!大丈夫?」


 人形のように固まってしまった彼女の肩を揺らす。

 麻龍は本当に一瞬意識を無くしていたらしく、ぱちくりと瞬きをして、いま初めて目の前にいる私に気づいたようだった。


「ごめん、私、いま何か変な感じに」

「もうっ、ちゃんとご飯食べないからでしょ? 急にたくさん食べたりするから体がビックリしてるのよ」

「そう……かも」


 私は案外平気そうな彼女の様子に安心してホッと溜息をつく。そして、話を再開した。


「――でね、ここからが大事な話」


 私の真剣な表情が彼女に伝播したのか、彼女もその拍子に顔を強張らせた。


「アンタ、本当に名前変えたいと思ってる?」

「う、うん」


 彼女はぎこちなく頷いた。


「親から貰った名前を捨てるっていう覚悟はある?」

「……」

「自分の名前の意味、考えたことある?」

「それは、ある。何回も言ったことあるよね? 麻雀の麻に、ロンの龍で、可愛い響きだからマロンって」

「そうじゃなくて!」


 麻龍は体をビクッとさせた。


「親にちゃんと聞いたことある? なんでこんな名前つけたのって? おじいちゃんやおばあちゃんだっていた訳でしょ? 反対してなかったのって? 聞いたことある?」

「それは……ない。別に昔は変だって思ってなかったし、親には適当に聞いただけだし」

「じゃあ聞かなきゃ! これからアンタたちに貰った名前捨てるけど、なんでこんな名前をを付けてくれたのって聞かなきゃ! そうじゃなきゃ、きっとアンタ後悔するよ……?」


 彼女は怯えたように小さく頷いた。


「明日空いてる?」

「え?」

「私も一緒に行くから……、アンタの実家」


 私は拳を強く握る。ぎゅうと握り込むと汗で手が滑る。

 麻龍は少し考えて、首を横に振った。


「いい」

「麻龍……? なんで分かってくれな」

「違う」


 彼女は静かに答えた。


「ちゃんと私自身の口で訊いてくるから。心配しないで」

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