1-8

 いつもと変わらぬ朝がやってきた。

 寝ぼけ眼のままスマホのアラームを切って、スヌーズでまた目が覚める。布団をはねのけ、ぼさぼさの髪を振り乱して飛び起きる。顔を洗って、髪を櫛で梳かしながら、家を出るまでの時間を頭の中で逆算する。小さなローテーブルの上に百均で買った立て鏡を置いて、手早く化粧を済ませる。仕事用の手提げバッグをクローゼットから取り出し、中身を確認する。定期券、財布、あと総務課に提出する書類も忘れず……と、よし、これでいいか。廊下を駆け足で突っ切り、玄関のパンプスにつっかけ、家を飛び出る。

 ドーナツ型の丸い溝に足を取られないよう気を付けながら急勾配の坂道を下っていく。住宅街の先にひと際背の高い建物が見える。あれが私の勤め先、〝名取市役所〟人口20万人を抱える県下最大の中核市――〝名取市〟の行政を担う中枢機関である。市街地に向かって真っすぐに伸びる電車の線路と太い四車線の国道。行き先と道筋ははっきり見えるのに、この小高い丘に建てられた私のマンションからは実は結構距離がある。のんびりしてると遅刻してしまう。急ごう。


 

「おはようございまーす」


 裏口玄関から連絡通路を突き抜け、〝保健医療課〟〝税務課〟〝障害福祉課〟の立て看板の脇を横切りながら、職員に挨拶を交わす。

 そして、〝戸籍・住民登録課〟の事務所ブースに足を踏み入れた。


「お、桐野さん、はよぅーす」

  

 峯田課長がスポーツ新聞を広げながら、気の抜けた挨拶をする。


「おはようございます。の試合って昨日でしたっけ? どうでした?」

「桐野さぁん、その話はよしてよぉ。ホント思い出すだけでも気が滅入りそうなんだから。そのせいかな、朝から腰の調子悪いんだ。ヴァモスが調子悪い時はいつもこうなんだよ」

「お大事にしてくださいね」

「いや、ホントまったく」


 課長は大きく溜息をついた。

 ヴァモス、とは彼が応援している地元の社会人サッカーチーム〝ヴァモスゴーゴー名取〟のことで、名取市内に地盤を持つ老舗菓子メーカーが協賛している創設三年の若いチームだ。Jリーグへの足かけとなる〝JFL〟に昇格するため奮闘しているが、実力振るわず、チームは低迷の一途を辿っていた。


「あ、そうだ。今日、公用の受けが多いみたいんだよね」

「公用ってどちらが取りに見えるんですか?」

「県税さん。住民票と謄本と、何人分って言ってたかな。ちょっと忘れたけど。俺、朝から支部会で出張だから決裁よろしくね」

「決裁? 私がやっておいていいんですか?」

「桐野さんも補佐なんだからいいのいいの。俺の印鑑この引き出しに入れとくから、適当にやっちゃって」


 そう言って峯田課長は欠伸をしながら、熱心に紙面を見始めた。


 管理者がすべての決裁書類に目を通せるかというと実務上は難しい。遂行義務はあるし、建前としては目を通している。だが、時間と手間を考えるとムダな作業も多い。大して内容の念査もしないなら、別の人間に見てもらおう。そういう費用対効果至上主義の一種の甘えに絆されて、〝代行〟が慣習化してしまっていた。それにいち係長と言えど、課長補佐の任に当たる私はその〝代行〟を行うには適任という訳だ。



 九時になり開庁のチャイムがなると、正面玄関から続々と市民が押し寄せる。朝一番に来所する市民が向かうのは、税務課、健康福祉課、そして戸籍・住民登録課だ。

 入用の多い住民票を手に入れるために、名取市中の市民が大挙をなしてこのカウンターに押し寄せる。発券機の呼び出し音が忙しく鳴り響き、番号札のペーパーをカッターで切る自動化された音とが交互にやってくる。順番が来るのを待ってベンチに座り、早くしろと言わんばかり睨みを利かせ、私たちの仕事の様子をじっと見つめる市民達。もう仕事中は絶対カウンターの外に目をやらないようにしている。いったい私たちが何をしたと言うのだろう。ホント、間に壁の一つでも作ってくれればいいのに。



「三輪さん、先にお昼行ってきて。葉山くんは一時まで受付張ってもらっていい? ええ、そうね、よろしく」


 来所者の波が途切れる一瞬の隙を見計い、部下に休憩に入るよう指示を出す。

 お昼休憩の人配は本来は課長や課長補佐の役目だが、今日は二人とも支部会で出張中なので私が代行している。こうやって少しずつ管理者の仕事に慣れていき、ゆくゆく二人のような役職に就くのだと思うと、組織って上手くできてるなって思う。


「係長」


 新人の三原さんがおずおずとやってくる。


「どうしたの?」

「あの―――……、これなんですが……」


 彼女は一枚の書類を私に差し出した。それは、戸籍情報の検索システムをプリントスクリーンしたものだった。氏名、住所、性別、生年月日などが簡記されている。


「実はさっき窓口に来た方に指摘されて……、ウチから送られてきた書類の名前が違ってると言われまして」

「いつ送った書類?」

「それがたぶん税務課から送られてる書類だと思うんですが、住所氏名がワッペンで出力されているので、ウチのシステムが可笑しいんじゃないかと思うんです」


 庁内で扱っている市民の個人情報は戸籍・住民登録課で一元管理されており、市民からの届出の通り住所と氏名をシステムに入力すると、それが別の課でも自由に閲覧できる仕組みになっている。

 税務課が送ったという書類はそのシステムを使って印字された物のようだった。つまり、戸籍・住民登録課の入力時点でタイプミスがあった可能性が高い。


「なんて人?」

「近山三丁目にお住まいの 〝鈴原健太郎〟さん、という方です」

「何が違うって?」

「〝健〟の字が正しくは建築の〝建〟になるそうです」

「なるほど、ね……」


 私は三原さんを直近に提出された申請書が保管されている簿書庫から原本を確認するよう指示を出す。ややあって彼女が持ってきたのは一年前に提出された住所変更届だった。


「この時点では、健康の〝健〟で申請してるのね。なんで今日になって間違ってるって言い出したのかしら」

「それが……、この方、もうずいぶんとお年を召してらっしゃって」

「自分の正しい名前を忘れてるってこと?」

「だと思います」


 こうしたケースは高齢者に多い。今より個人情報の管理が厳格でなかった頃、本人の恣意的な理由で、役所、銀行、各機関にそれぞれ漢字を変えただけの通称で申請する行為が横行していた。

 例えば、〝忠之タダノリ〟さんという方が、よく〝タダユキ〟と間違われてしまうので、銀行には〝忠則〟という名前で申請したとか、〝正美〟さんという女性が、元の名前が可愛くないという理由で〝雅美〟に変えてみたとか、そんなケースは後を絶たない。鈴原健太郎さんもそうした内の一人だろう。その時々に思い思いの漢字を書くことで、どれが自分の本名か分からなくなってしまったのだ。

 しかし、現状のまま戸籍・住民登録課としてほっとくわけにはいかない。


「戸籍はどうなってる?」

「健康の〝健〟になってるんです」


 三原さんが早口で答える。どうやらいの一番にそれを伝えたかったようだ。

 本人が〝建〟だと言っているのに、戸籍が〝健〟では不味いからだ。


「ってことは、一番最初の届出を確認しましょう」


 戸籍を作る前、もっと言えば出生届まで遡らなくてはならない。そうなれば、課の係長程度では簡単に引っ張り出してくることはできず、名だたる管理者たちの連名決裁を貰い地下の特別書庫に行く必要がある。多少、骨のある仕事になるな。


「分かった。ここからは私が受け持つわ。三番カウンターにいる、あのお爺さんね。三原さんはお昼に行ってきて」

 

 こういう時、考えられるパターンとして二つある。それは、戸籍・住民登録課ウチが本人の申請通り戸籍登録できていたかどうかによってその後の対応が別れる。

 誤っていなければ、本人の勘違いで申請されたことになるので、実名が分かる書類を揃え、家裁に戸籍訂正の申し立てを行ってもらうことになる。

 誤っていれば、本人に断りを入れて〝職権訂正〟を行うことになる。戸籍には〝誤訂正〟という文言が入るが、提出時点に遡って正しい名前で登録される。本来入力ミスなどあってはならないのだが、法律で厳格に定められた戸籍といえど、人の手で書かれた届出を人の手で入力している以上、どこかでエラーが生じることは致し方ないことなのだ。それに、入力されたのは随分と昔の話だ。今ほど厳しい確認作業があったとは思えない。


 でも、いち市民からすれば、そんなことはまるで関係がない。


 私は積まれた書類の束の上に手を置きグッと腰を持ち上げ、カウンター戦場に向かった。


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