1-6


 あの頃の麻龍は、毎日が楽しそうで、笑顔が絶えなかった。何気ない今この一瞬が一番幸せだということに気づいていない、真の幸せを彼女は享受していた。

 彼女はいま人生のどん底を味わいながら、かつての幸せを夢に見ているだろう。こんな地獄が待っているなら、あの日の一日一日を無駄に過ごさなかっただろう、と。あるいは命を絶ってでも過去に戻りたい、と。そう思い悩んでいるかもしれない。

 私だって、彼女のことはどうでもいいと思っていた。為すこと全てが適当で、調子のいい女。でも、人懐っこくて、放っておけない存在。だからあの子のために何かできることはないかって日夜考えながら、こうしてあちこち駆け回っていた。

 それも結局、徒労に終わっちゃうのかなあ……。



「トナリ、スワッテモ、エエ?」


 不意に大きな影が差した。

 声する方に振り返って、高く見上げる。


「モウ、ココしか、席空イテヘンネン」


 鼻筋の通った綺麗な顔立ちに、ビー玉のように丸い瞳が私を見つめていた。眩しいほど艶のある男らしい肌が色気を匂わせる。このカフェの人気商品であるこくまろカフェオレ(アイス)を手にして、その男はそっと微笑んだ。

 すぐに私のアンテナが察知した。こいつ、モテるんだろうな。出来ればこういうイケメンとお付き合いしたいものだ。

 ただ、そのちんけな言葉遣いさえなければ。


?」

「はあ……」

「今日、エライ混ンデルヤロ? ナンカOGのが講演シテルミタイヤワ。ソレデイツモヨリ人多イネンナ」


 彼の頭の中では恐らくコテコテの関西弁というものを話しているのだろうが、それはテレビやラジオで視聴する、あるいは親戚の使っている関西弁とはまるで違った。

 イントネーションが可笑しいし、ピッチもなんだか変だ。古い音声ソフトで作った、ロボットのような言葉だった。


「ジブン、?」


 関西弁を話さない私でも分かる。『一人なん?』と言いたいなら、真ん中の〝と〟をもっと強調すべきだ。彼の発音は言うなら〝オカリナ〟と一緒で、抑揚がない。『ジブン、オカリナ?』そう聞かれた方がまだ理解できるくらいだ。


「一人、ですけど」

「アンマリ、コノヘンジャ、見イヒン顔ヤ思テ」

「この辺って?」

「アア……、ナントナク、同ジ時間帯ニ利用スルヒトノ事ッテ覚エテルヤン」


 彼はそう言うとテーブル席に座っている女子学生たちに愛想よく手を振った。女子たちがキャーっと嬌声を上げた。


「大体、イツモ同ジガ、オンネン」


 面子、ねえ。ファンクラブの間違いじゃないのか。


「ダカラ、自分ノコトハ、初メテ見ルナア思テ」

「私? まあ、最近は来てなかったかもね」

「……アレ? ソレ、首カラ何ブラ下ゲテルン?」

「これ?」


 彼は、私の入行許可証を指差した。


「私、ここの学生じゃないから」

「ソウナン?」

「一応、ここの卒業生なんだけど、大学とは関係なく別の用事で来たの」

「ジブン、オージー、ナンヤ?」

「オージー? ああ、OGね」


 コーギー、みたいな発音で言うから一瞬なんのことか分かんなかった。


「ジャア、別ノ用事ッテ?」


 彼が無邪気に尋ねる。馴れ馴れしい口調が、突然、私の心をざわつかせた。小さな針を突き立てられた気がした。

 こいつ、人の気も知らないで……。


「別に……。説明するほどのことじゃない」


 自分でも驚くほど幼稚な言い返しをした。でも、今の態度が何のバリアも張ってない素の自分だということを追って理解するようになった。


「――――訳ありですか?」


 彼の口調が変わった。明朗とした標準語、語気に落ち着きがある。先ほどまでの不安定なロボット言葉が嘘みたいだ。今まで誰かにアテレコでもされていたのかと疑ってしまうほどの変わりように、私は目を丸くした。


「俺で良ければ、ご相談に乗りますけど」

「アンタ……、何? ちょっと、気持ち悪いんだけど」

「き、気持ち悪い? なんで?」

「だって、さっきまで変な関西弁使ってたでしょ。で、いま普通に喋ってるし。もしかして二重人格?」


 私がそう言うと彼は仮面を被るように顔に手のひらを覆い、指の隙間から瞳を覗かせた。


「フフ……、ヨウ分カッタヤン。ソウヤ、俺ハコイツノ中ニオル、モウ一人ノ人格ペルソナヤ。俺ノ存在ニ気ヅクトハナ、ジブン、ナカナカヤリオルデ」


「…………」


 無言で、彼を見つめた。

 お互いに引かぬまま、五秒は経った。


「―――すみません。今のは、ふざけました」

「そうよね」


 彼は耳を赤くしながら、苦笑いした。

 

「俺、鶴舞つるまユウリって言います。外国語学部で中国文学を専攻してます」

「桐野千早です。ここにいた時は、経済学部だったわ」

かあ。そう言われてみれば、なるほど……」

「ああ? どういう意味よ」


 私はガンを飛ばして詰め寄った。彼は、たじろいで答える。


「いえ、他意はないですよ。ただ、それぞれ学部の色ってあるじゃないですか。たぶん、千早さんから見て俺は外国語学部ガイゴっぽいと思いますし、パラ経は言い方は良くないですけど、経済学部の色を表すのにはぴったりだと思います」

「えらくはっきりと言ってくれるじゃない」


 パラダイス経済、略してパラ経。比較的単位の取りやすいと言われる経済学は、遊び盛りの大学生たちにとって格好の餌食となる。代返や無断欠席をしても定期テストは対策ノートをすれば簡単にパスできる。そうして捻出した空き時間を遊興に充てる学生が多いことから、経済学部は楽園パラダイスと言われている。もう死語だと思っていたけど、まだ使う人がいたとは。


「俺たちもガイゴってだけで、色んなことを言われますから。そこはお互い様と割り切ってください」


 まあ、確かに、外国語学部の人間って鼻に付く。私たちは物事を大きなスケールで考えてますけど? 小さなことで言い合いをして何になるんですの? そんなリフレクションは、グローバルスタンダードにアジャストすれば、ディスカッションのスペースはないですわよね? いつもそういう態度をとっている……気がする。


「でも、アンタ……、言われると外国人っぽい顔してるわね」

「はい。父がイタリア人で、母が日本人で、いわゆるハーフです」

「ああ、そうなの。〝ユウリ〟ってじゃあ、カタカナで書くわけ?」

「そうです」


 ユウリの顔が少し曇ったように見えたが、私は気にせず言葉を続けた。


「へえ、すごい。なんか芸能人ぽいね」

「よく言われるんですよね。それに、こんな顔じゃないですか。去年、学祭のミスターコンで優勝した時は、実際、東京の芸能事務所からオファーも来ました。いまハーフタレントを推してるから是非と言う風に」


 自分でイケメンを匂わせる辺り、小さい頃からそれを言われることにすっかり慣れてしまっているのだろう。そう自負しても身に合った言葉なので、不思議と嫌悪感はなかった。

 自分で言うのも何だけど、私も可愛い顔してるしね。

 美人とイケメンには寛容なのよ。


「ハーフってことは、もしかして、さっきの変な関西弁……」


 たどたどしい日本語は、外国人の特権だ。それなら奇怪な言葉も理解できるけど……、あ、いやいや、待て。こいつ、さっきから流暢に日本語喋ってるよな。


「俺、イタリア語はさっぱりなんですよ。顔だけイタリア人の血が流れてるんですけど、生まれも育ちも日本なので、日本語しか話せません」

「だったら、あの言葉遣いは何なのよ?」

「実は、大学のお笑いサークルに入ってて」


 お、お笑いサークル? 私が在学していた時からあったっけ?


「去年、落研メンバーの一部が設立しまして、そこに在籍させてもらってるんです」


 落研は、落語研究会のことだ。確か、流渓大学の落研は歴史も長く、いつ聞いても名前が思い出せない、あの……、有名な噺家さんも在籍していたとか。


「そこで、漫才コンビを組ませてもらってるんですけど……、あまり客のウケが良くなくて」

「相方は?」

「パチャラ、っていうタイの交換留学生です」


 なにそれ。ちょっと面白そうじゃない。


「パチャラも日本語が堪能なので、一通り漫才としては成り立ってると思うんです。でも、やっぱり、他のコンビを見ていると何かが決定的に違う。しばらく、周りの漫才を見て研究したんです。すると、あることに気づきました」

「あること?」

「そう、西って」


 ……そこ?


「だから、二人で関西弁を勉強してるんです。いまもここに来るまでずっとNHKラジオの関西弁講座を聞いてきました」

「努力の方向間違えてない?」

「いえ、実際に成果も出ています。俺たちが関西弁を喋ると、漫才中ずっと笑いが絶えないんです」

「それ失笑じゃないの? 外国人みたいな見た目した人たちが真面目に関西弁喋ってたら、そりゃ笑うわよ。でも、それは笑わせてるんじゃなくて、笑われてるのよ?」

「ええ? そんなはずないですって。まるで俺の関西弁が下手みたいな言い方しないでください」

「下手なのよ……っ!」


 私はがっくしと頭を垂れた。

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