1-5
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「
「あ、えっと……、ウォー、シー、タンベン……、マーロン!」
テキストと私を交互に見ながら、その女はたどたどしく答えた。どうやら中国語で自分の名前を言ったようだが、あまりに日本語然としていてほとんど聞き取れなかった。
「えーっと、ニーナ?」
「
「えっ? ゼンマシエ? ……って何だっけ? どういう意味?」
女が中国人の張先生を気にしながら小声で囁くので、私も真似をして囁き返す。
「名前の綴りが分からないから……いちど書いてみてって言ったのよ……」
っていうか、今日の授業はそういう内容だ。朝から張先生が何度も口にしているフレーズだ。このペアワークだって、さすがに半年も毎週同じ授業に出ていれば、流れで言いたいことが分かる。そもそも予習を命じられていた単元でもある。
「あっ、なんだ、そういうことかぁ―――――て、あっ! 違っ……!」
彼女は口元を押さえ、目を大きく開いて張先生の様子を窺う。先生の鋭い眼光が女に焦点を絞っていた。このペアワークの間は日本語を喋ってはいけない。何があっても、中国語で説明するようにきつく言われている。そのこだわりのせいでこの授業は学生たちにめっぽう嫌われているが、私も、そしてこの女もきっとオシャレな〝ヨーロッパ語〟が性に合わないから、こうしていつか台湾でイケメンを捕まえるために中国語を専攻したのだ。
「
「え、あ、先生……じゃなくて、ラオシー、えへへ、モーマンタイモーマンタイ」
「
「え? あと、あの……」
「
「ビエダマ? え、メイヨー、メイヨー」
「
女は苦笑いを浮かべて、首を傾げる。
駄目だ。彼女は全く先生の言葉を理解していないし、先生も彼女の力量を全く過信し過ぎている。言葉がドッチボールを越えて、ベースボールになっている。先生の全力投球に、女の当て外れなスイング、それでは会話にならないだろう。
「
困っている女を見て、私はなぜか助け舟を出そうと思った。
「
「
「
「
張先生はそう言うとなぜか満足げな顔をして教壇に戻った。
まあ、拙い言葉でもなんとか意味は通じるもんだ。週二回、半年は勉強してきた中国語、簡単な会話はこなせるようになっていたらしい。
「さんきゅうね――………」
女はテキストで顔を隠しながら、私だけに聞こえる声で申し訳なさそうに言った。そう言いながら彼女が差し出した手には、大好きな”Looking”のカカオチョコレートが乗っていた。
「こちらこそ……って、ちょっと」
私は慌てて彼女の手のひらからチョコレートを取り上げる。お腹が空いていたからじゃない。個包装もされていないチョコが、彼女の体温によって溶けようとしていたからだ。
「こういうの渡す時、普通、ティッシュにくるむとかしない?」
「あ、ごめ! 気づかなかった!」
「アンタねえ……。ほら、手のひらにチョコ付いてる。これで拭きなよ」
私は彼女にウェットティッシュをまるごと手渡した。昨日、薬局でまとめ買いしたから、存分に使ってくれていい。
「ありがとぉ~、マジ感謝ぁ~」
そう言って彼女はフィルムパックの蓋をぺりぺりと剥がし、一番上の一枚を掴むと、中からごっそりとくっついて出てきた。
「えぇ?! ちょっとコレ、出過ぎじゃない? ウケるんだけど」
ケラケラと軽はずみな調子で笑いながら、取り過ぎて束になったウェットティッシュを机の上に置いた。
「コレ、安もんっしょ? フツーこんなに取れないもん。メーカーどこ? メーカーどこ? え? オリジナルブランドじゃん!? マツ薬局のオリジナルブランドじゃん! これ、いくら?」
私は込み上げる怒りをなんとか抑え、声を押し殺す。
「そんな……安くなかったと思うけど」
「嘘ぉ?! これ、結構ペラペラじゃない?」
「最近はそういう薄めのやつ流行ってるから……!」
「厚手の方がよくない?」
「持ち運びに便利だから……!」
「でも、だったら元のパックのサイズを小さくした方がよくない?」
「取り出しやすいように広げてあるだけだから……!」
「え、こんなにくっついて出てくんのに、広げた意味ないじゃん!」
「それは、アンタの取り方が悪かったんじゃない……?」
「私? 私の指そんな太くないって、ほら見て、こんな華奢で細い指ないって!」
「知らないわよ……! じゃあ、アンタの指の感覚がニブってんじゃないの!?」
「あ――ちょっと、ねえ、大きい声出さない方がいいって」
「アンタのせいでこうなってんのよ!」
「ホントにマズいって……」
「なによ! だいたい生身のチョコ手渡しすんな! そんな大きいポーチぶらさげて授業来るならウェットティッシュの一つでも入れときなさいよ! それに元はと言えばアンタがちゃんと今日の授業予習して来ないから、そもそもこんなことに―――――」
教室中のみんなの視線が私の背中に突き刺さっていた。
つい熱くなって声を出し過ぎてしまった。ネイティブな日本語のおまけ付きで。
ふと先生の方に目を遣ると、見たこともないような怖い顔をしていた。先生は学生を叱る時、決まってまず困惑したような顔を見せる。なぜ、こんな簡単なことができないのか。どうして、貴方は人の話を聞いていないのか。私の授業を邪魔する必要があるのですか、と。その顔を見ているうちに、私たちは自分たちが先生を困らせるような、とんでもないことをしでかしてしまったと自省する。表情豊かな先生は、そういう技を持っていた。九十分の授業の間に、喜怒哀楽さまざまな表情を見せることから巷では〝張劇場〟とも言われている。
今日の顔は、張劇場初出演の新顔さんだ。
怒り顔。それも、ぐつぐつと腹の底から湧いてくるような怒り。初舞台でこれほど印象を残したのは、二か月前、誕生日サプライズに驚いた時の顔以来だ。
先生の気持ちを鎮めるには、これしかない。
四声の上げ下げ、イントネーションに気を付けて、せーの――
「……
生協の裏に、学生たちが集う大きなカフェラウンジがある。窓際のカウンター席に腰を下ろして、私は仏頂面で頬杖をついた。そして、後ろをくっついて歩いてきた女にガンを飛ばす。
「はい、約束通り買ってきて」
私は財布から五百円玉を取り出すと、乱暴にそれを女の手にやった。
「分かった、分かった。買ってくるから。こくまろカフェオレ、だよね」
「あと、クランベリーのカップケーキもよ」
「マジ? だったら五百円じゃ足んないんだけど」
「なに? 文句あんの? 五百円も渡しただけマシと思え」
「うぇ~、マジ鬼じゃん。ぜったい高校の時ヤンキーだったっしょ」
「何か言った……?」
「そんな怒んないでよ。せっかくの美人が台無し、じゃん?」
「――ああっ、もう! 早く行け!!」
顔を真っ赤にして叫ぶと、女が半笑いしながら小走りでレジに向かっていった。私は肩で息をしながら、彼女の背中を睨みつけた。
しばらくして、両手にカップを持った女が、ニマニマと気持ちの悪い笑みを浮かべてやってきた。私は無言で片方のカップを受け取ると、「カップケーキは?」と尋ねた。
「ごめん! 来る途中で食べちゃった!」
「は……?」
「ほら両手ふさがってんじゃん? なんとか間に挟んで持ってきたんだけど、うっかり落としちゃってさ、捨てるのも勿体ないから食べちゃった……」
「はあ……?」
「ってうっそー。さすがに落ちたの食べる勇気ないって。私、三秒ルールとかマジ信じない人だからね。一度床に落ちたら、外だって中だってカンケ―ないんだってね、あれ」
私の冷ややかな視線に気が付いて、女はまごつく。
「えと、あの、もう……、冗談だってば。そんな怖い目しないでよ」
「で、カップケーキは?」
「売り切れだったんだって」
私は拳を机に叩きつけ、腰を浮かせる。
「マジマジ! これはマジだって!」
女の様子から察するにそれは本当らしかった。お昼前に売り切れたのはたぶん今日が初めてかもしれないが、ここのクランベリーケーキは学生の間で噂の人気商品だ。見回すだけで五から六人のプレートの上にそれが乗っている。売り切れていたのは本当らしかった。
「分かった。もういいよ」
私は短く溜息をついた。
「なに? カップケーキ好きなの?」
「まあ、ね」
「じゃあさ―――――」
女が隣の席に座ってポーチを膝元に置いた。
「ウチ来なよ! 私、ここよりもっと美味しいカップケーキ作る自信あるよ!」
私は目を細める。自信満々に胸を張る女の顔が徐々に曇っていく。
「いやあ、今日は色々メーワク掛けちゃったしさ……、なんかお詫びしたいじゃん。それ、張先生の課題たくさんあるんでしょ? 私も手伝うからさ、ウチ来てよ」
私は、授業を妨害したという理由で、張先生から中国語の文章を繰り返し書いて練習するよう言いつけられていた。期限は明日。まるで聞き分けの悪い小学生に対するような仕打ちだが、先生は今までも学生に何か粗相があるとこうしてテキストの複写を命じた。
師曰く、〝勉強〟とは『無理強いする』の意であり、自発的に『学び問う』ことの〝学問〟とは意を違える……、とのこと。これは〝勉強〟だと先生は言った。
「別に……、あれは私も悪かったし。このカフェオレだけで十分よ」
「いやいや、それはアナタに貰った五百円で買ってきたものだから―――いいいのいいの! 本当にお詫びだけはさせて! じゃないと、私、これからもあの授業出るのに、合わせる顔がないって!」
彼女の真剣な眼差しに私は……、負けてしまった。
「……分かったわよ。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」
彼女の顔がパッと明るくなる。
「マジ? 腕が鳴るわぁ……! ホンット、私のカップケーキ食べたら、他所で食えなくなるよ?」
「アンタ、名前は?」
「へ?」
私の突然の問いに、彼女は間の抜けた声を出す。
「さっきの授業でちゃんと聞き取れなかったから」
「ああ、ごめん。私、チューゴクゴ、下手くそだよね」
「うん、壊滅的だったわ」
彼女はフッと笑みを零して言った。
「私、フジモト マロンって言うの」
「へ?」
マ、マロン? 今度は私の口から間の抜けた声が飛び出る。
彼女は慣れた素振りで、空に文字を書いた。
「あの、麻雀の〝麻〟に、ドラゴンの〝龍〟―――あ、難しい方のね」
「ああ、〝ロン〟って麻雀の〝龍〟か」
「そうそう、〝ロン〟って読ませるのは中国語の読み方らしいんだけど……」
確か、最初の頃の授業で、張先生が興奮気味に彼女の名前について語っていた。あの時はその理由が全く分からなかったけれど、少しずつ知恵が付いてくると案外スッと頭に入ってくるもんだ。
「珍しい名前でしょ……?」
「え、と、そうね」
それは、一時期、メディアで取り上げられていたキラキラネームというやつじゃないだろうか。どこだかの大学教授だったと思うけど、ワイドショーに出ていたコメンテーターの批判めいた口調が記憶に残っている。
「私以外にいないでしょ、こんな名前! よく言われんだよね!」
彼女は、笑顔だった。
私の考えが虚しく感じられるほど、彼女は無邪気に答えた。
「あなたの名前は……?」
言われて、私は〝キリノ チハヤ〟と答えた。
「いい名前! すっごい、何て言うんだろう、綺麗な感じ!」
「ぷっ……なにそれ……、語彙力なっ」
「あ! 馬鹿にしないでよ! ただでさえ外国語もできなくて落ち込んでんのに、日本語まで言われたら、私、さすがに泣くって―――!」
アハハ、可笑しい、変なの。
私も笑って彼女に応えた。
この日から私たちは友人になった。
帰り際、陳列ケースに残った大量のクランベリーケーキを見つけて、彼女に迫ると、彼女はこう答えた。
「私のカップケーキ食べて欲しかったからさ」
彼女となら仲良くできそう。
そう確信した。
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