1-3

 名前を変えたい、か。


「ココにやってくる人は、皆さん、自分の名前を変えたいという熱い思いがあります。ある人は風の噂を聞きつけ、ある人は夢枕に出てきて、意識のないまま徘徊していたら辿り着いた、とか。不思議なようですが、改名の願望が強ければ強いほど辿り着く確率が高くなるようです。僕は一種のパワースポットのようなものだと考えています」


 そうか。やっぱり、ここがあの噂の場所で間違いないんだ。


「この研究所は貴方が設立したの?」

「研究所のように部屋を改装したのは僕です。でも、この特殊な空間は僕が来る前から、もっと言えば、この建物が建つ前からあったようです」

「どうしてここに改名を願う人たちが集まるの?」

「はっきりとは分かっていません」


「それじゃあ、さ」


 私はココに来てからずっと訊ねたかったことを、意を決して口にする。


「この研究所で、って噂は本当なの?」


 名城は固まったまま、何も答えなかった。

 川名が嬉々として私の顔を覗き込み、ニタリと笑いながら名城に顔を合わせる。


「ほら名城……、このお姉さん何も知らなかった」


 名城が落ち着いた口調で、私に問い掛ける。


「千早さん、同じ質問をします―――貴方はご自身の名前を変えたいと思っていますか?」

 

 その言葉に、まっすぐな眼で答える。

 

「私―――――」





 


「―――――自分の名前、好きじゃないんだ」


 が顔を真っ赤にしながら、またハイボールを喉奥に流し込んだ。

 

「変だよね。自分の名前が嫌いなんてさ。普通、親に貰った名前をそんな風に言ったりしないよね」


 ごくりごくりと喉仏を垂下させて天を仰ぐ。空っぽになったジョッキを机に叩きつけ、彼女は目を赤く腫らしながら、私の手を強引に取った。


「ねえ、千早! なんで親に決められた名前で生き続けなきゃいけないんだろう? どうしてあの人たちがその場で思いついたような名前を一生負い続けなきゃいけないんだと思う? 私、犬や猫じゃないんだよ! 人間なんだよ!? どうして私だけが……っ、こんな思いしなきゃいけないの……?」


 私は泣き崩れる友人の肩を諫める。


「落ち着きなって、フジりん」


 友人は思い切り私の手を払って、赤い目で睨む。


「あだ名で呼ばないでよ!」

「ああ、いや……」

「気を遣われるのが一番イヤ! 千早は〝フジりん〟なんて言わなかった! 大学の時から普通に名前で呼んでたでしょ!」


 私は唇を噛んでから意を決し、彼女の名を呼ぶ。


「悪かったって。麻龍まろん、いったん落ち着こ?」


 藤本ふじもと麻龍まろん、それが彼女の本名だ。

 麻雀の〝麻〟に、麻雀用語の〝ロン〟という言葉を合わせて、麻龍。彼女の父親が大の麻雀好きで、男の子が生まれようと女の子が生まれようと、麻雀にまつわる字を入れたいと言った。対する母親はせっかく女の子が生まれたのだから、可愛い響きの名前がよいと言った。こうして二人の考えを折衷する形で〝麻龍〟という名前が生まれた。

 

「私さ、最初は嫌いじゃなかったよ? 自分の名前」


 珍しい名前というだけで、周囲からチヤホヤされた。会話のきっかけになるのはいつも名前の話だった。正直、嫌いじゃなかった。他の友人にはない、自分だけのアイデンティティだと思っていた。でも、学校だけじゃない――色々な社会と接するうちに自分の名前の異常さに気づき始めた。麻龍、ってなんか変だ。恥ずかしい名前だと感じ始めた。

 親戚や友人の中には容赦なく冷たい言葉を掛ける人たちがいた。「人間の名前じゃない」「あなたの両親は素養がない」「常識が欠如している」……、大人になるにつれ、そうした小言に敏感になった。相手に悪気がないと分かっているのに、「珍しいお名前ですね」と言われるだけで、この人は内心で自分を蔑んでいるんだと想像を膨らませるようになった。


「もう、ダメなんだよ……、私、耐えられないんだよ」


 転職活動を始めて二年。様々な会社の面接に行くたび、心が折れそうになる。

 自己紹介をすると、面接官は決まって眉をひそめ、風貌を確認する。奇怪きっかいなものを見る目で私を凝視し、ふっとほくそ笑む。でも、そんな面接官はまだマシな方だ。中には、露骨に私の名前をイジる人もいて、冗談交じりに「キャバクラの源氏名か何か?」と言われた時は怒りを通り越して、死んで消えてしまいたいとさえ思った。


「……今日も一社落ちた。さっき人事から連絡があったの。農薬の専門商社なんだけど。この度はご縁がなかったということで―――ってテンプレのセリフ言われて。でも今回は手ごたえがあったから、思い切って聞いてみたの。私、どうしたら受かってましたかって。そしたらさ……」


 麻龍の頬に一筋の涙が流れる。


「『珍しいお名前ですから、それを武器に、もっと自分をアピールしてみるといいかもしれませんね』って言われたの」


 なんて残酷な言葉なんだろう。

 会社側は不採用の理由を公表しない、それは就職面接のいわば暗黙の了解のようなもので、遵守されている不文律である。だから、麻龍に不採用の連絡をした人事の職員だって本気でそれを言ったわけではない。ただ落ち込む彼女を慰めようと掛けた言葉だったに違いない。でも、ちょっぴり無責任なその言葉が、彼女の首に掛けられた紐を縛り上げてしまった。


「だから、千早にさ、お願いがあるの」

「お願い?」

「千早っていま市役所に勤めてるんでしょ」

「そう、だけど」


 嫌な予感がした。


「戸籍を扱う部署に配属されたんでしょ」


 入庁して九年目、私が配属されたのは〝戸籍住民登録課〟という戸籍や住民登録に関する部署だった。窓口で住民票や戸籍謄本を発行、出生届を受理したりするほか、埋火葬の許可を出したり、人口動態調査などを手掛けたりしている。一見地味なようだが、国民が国民として認められ、国益を享受するには〝戸籍〟の有無がとても重要になる。名もなき人間を生み出さないために、私たちは日々業務に励んでいるのだ。


「麻龍、何が言いたいの?」

「私の戸籍、名前のとこだけ変えてくれない?」


 彼女はぎこちない笑みを浮かべた。唇が痙攣している。


「ちょっと……、冗談でしょ?」

「こんなこと、冗談で言えないよ」

「堅いことを言うようだけど、名前を変えるためには、家庭裁判所に申立書を提出して、司法の判断を仰ぐ必要があるの。私たち行政の裁量で変えられるものじゃないのよ」

「そんなこと、もうとっくに調べがついてる」

「だったら―――」


 麻龍は黙って首を横に振った。


「拒否されたの」

「拒否、された? ……家裁に提出したの?」

「した。でも、に該当しないから改名は認められないって」


 かつて同勤していた先輩に聞いたことがある。


 「正当な事由」とは主に八つあり、


 ①珍妙な名であること 

 ②むずかしくて正確に読まれない

 ③同姓同名者がいて不便 

 ④異性とまぎらわしい

 ➄外国人とまぎらわしい 

 ⑥神宮・僧侶になった(やめた)

 ⑦通称として永年使用した 

 ⑧その他

 (裁判所HP『名の変更許可の申立書』より)


 のいずれかを満たすものである、と。

 

 しかし、実際には条件を満たしていたとしても、本人が抱える特殊状況等を総合勘案して改名の可否が判断される。だから、たとえ珍奇な名前だったとしても、本人が精神的苦痛を感じているかどうか……、それを証明できる状況証拠が十分でなければ許可は下りないのである。


 以前、課の窓口で「名前を変えさせて」と若い女性に泣きつかれた先輩が自分なりに色々と調べたらしい。


 自分の名前を変えたいなんて変わった人だ。そんな人がこのご時世にいるんだ。自分の親に貰った名前を変えたいなんて、ねえ。桐野さんはどう思う。……まあ、どうですかね。饒舌に話す先輩に対し、適当に相槌を打った。


 今になって思う。あの時、興味を持って先輩の話を聞いていれば、麻龍にまともな助言もできただろう、なんて。


「裁判所から呼び立てがあって、その時に色々と話したの。自分の名前のせいで就職活動が思うようにいかないって。あの会社の面接官にこんな風に言われたとか、グループ面接で同席の就活生にこんな辱めを受けたとか、恥を忍んで今までの嫌な思い出をぶっちゃけたの。でも、認められなかった。証拠不十分だって」


 彼女は髪をぐしゃっと掻いた。


「もうっ……なんなの……、証拠って何……? こんなに苦しんでるのに、なんで誰も分かってくれないの……?」


 麻龍の弱弱しい声が、居酒屋の雑踏の中に溶けて消え入った。


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