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 そこは研究所と言うにはあまりに所帯じみていて、むしろ運動部の部室のような生活感があった。床に投げ捨てられたスポーツウェアが、ここでは古い書物に代わっているだけだ。

 私は無造作に置かれた机の上の一冊を拾い上げて、表題を確認する。ソシュール言語学、生成文法、ラングとパロール……、同じ日本人が書いたと思えない難解な単語ばかりが並んでいる。中身をパラパラと捲り、文章を拾い読みしていく。……駄目だ。かび臭い紙の匂いがするだけで、内容がさっぱり入ってこない。

 

「…………」


 私が退屈そうに本を漁っている姿を、少女はじっと見ていた。

 椅子の上に体育座りをして、その小さなスペースに器用に収まっている。


「なに見てんのよ」

「お姉さんが読んで分かるような本はここにないよ」

「何ですって……? あのね、これでも大学を卒業してるのよ。論文じみた文章もその気になれば読めるんだから」

「ここにあるのは、〝言語〟の謎を解き明かそうと一意専心になって研究に取り組んできた、先人達の魂の記録。お姉さんのような凡庸な人間には読めない」


 私は少女の気迫に気圧され、口をつぐむ。


「それに、ここは神聖な場」

「神聖な場?」

「一般人は入れない。名城の好意に感謝すべき」


 少女はむくれっ面をして、膝をぎゅっと抱えた。



「―――川名、それは違うよ」



 沸騰した電気ポットを片手に、名城が椅子を引いてやってくる。

 予め粉末茶を入れておいた湯飲みにコポコポとお湯を注ぐと、そっと私の前に差し出した。


「学問は、すべての人間に開かれていなければいけない」


 名城は着ていた白衣を大胆に翻し、白い歯をのぞかせた。


「僕は、そう思う」


 キメ顔でそう言う名城は、しばらく私の顔を窺っていたが、反応がないと見て、黙って膝に手をついた。

 ナシロさん―――――改め名城なしろ文雄ふみおは、私が想像するよりずっと若い男だった。綿飴みたいなフワフワの髪に、ビー玉のようなくりくりとした瞳。男性にしては小さくまとまった体型。針金で作ったような薄いフレームの眼鏡を首からぶら下げ、分厚い書籍を手に取る姿は、昔図書室で呼んだ科学図鑑の〝生き物ハカセ〟に似ていた。


「名城。このお姉さん、気を付けて」

「気を付けて?」

「とても暴力的」


 私が声を上げようとしたところを、名城が制す。


「さっきのこと? あれは事故だったんだろう?」

「違う。川名の頬、見て」

「それも君が彼女に意地悪をしたせい。違う?」

「でも、このお姉さん、怪しい」

「人のこと指差して怪しいなんて言うな」

「でも……、川名の第六感がそう言ってる」

「君の第六感はいつもアテにならないんだ。こないだだって――文学部の子が僕に気があるらしいからアタックしてみるといいって言うもんだから、思い切って告白してみたのに、あっさりと振られた。もう君のシックスセンスは信じないことにしたんだよ」


 川名の首がコトンと傾く。


「名城、あの女に振られたんだ。なんて言われた?」 

「他に好きな人がいるからって」

「『他に好きな人がいる』……他には?」

「あなたのことは友人にしか思えない」

「ふむふむ。『友人にしか思えない』……他には?」

「名城くんなら他にイイ人見つかるよって」

「『他にイイ人見つかるよ』……っと、もっと面白いのない?」

「面白いの?……って、こら!メモを取るな!」


 名城が彼女のリングノートを取り上げ、溜息をついて、私の方を向いた。


「あ、すいません。川名はなんでもメモを取るのが癖で……、先ほどはご無礼を致しました」

「いえ、別に」


 私は口を付けた湯飲みを置いて、仏頂面で答える。


「改めてお名前をお伺いしてもいいですか?」

「桐野千早」


 目の前の川名という少女に、散々に罵られた私はとても機嫌が悪くなっていた。

 宥めるように名城が答えた。


「千早さん。とても、いい名前です。ご両親は神職か、それとも服飾関係か何かを?」

「いや、そういう家じゃないけど……、なんで?」

「千早、と言うと巫女装束の一つにありますので、関連のお仕事をされているご家庭なのかと」

「ウチは……、そんな家じゃないわよ」


 私は父と母の顔を思い浮かべる。

 父は賭け事が大好きだった。いつも仕事に行くフリをしながら、近所のパチンコや場外馬券売り場に通っていた。それを親戚に言い咎められると、今度は街中を意味もなく徘徊するようになった。亡くなってから脳に大きな腫瘍があることが分かった。

 母は物静かな性格で、いつも父の言いなりだった。飯を作れ。風呂に入れろ。ドラマでしか見たことのない家長制度が残る古い家だった。父が急死した事実を受け止められなかった母は茫然自失となり、食事も睡眠も十分に摂らなくなってしまった。毎日のように魂の抜けた瞳で遺影を眺め、そして一年と経たず、父の後を追った。

 

 それが、私の家族だった。母が亡くなったのは高校一年生の時だから、あれからもうすぐ十五年が経つことになる。十五年の間に色々なことがあった。荒れた家庭環境は私の青春を狂わせた。中学校も高校もロクに通わず、お情けで貰った単位で何とか卒業できた。だが、社会に出てみると、学歴も資格もない人間には大した働き口がないことを痛感し、夜間大学に通い始めた。それが、この流渓大学だ。

 

 要領の良さが取り柄だった私は、大学の課題と公務員試験の勉強を両立させ、卒業後まもなく、名取市役所の職員採用試験を受けると、みごと内定を勝ち取った。紆余曲折あったが、今はしがない公務員生活を送っている。



「きっと適当に付けられた名前だと思うけど?」

「そう、ですか」


 名城は納得がいかない様子で、私をまじまじと見つめた。


「なに?」

「名前は親から子への最初のプレゼントです。適当に付けたりしないものなんですよ」

「千早、って名前に意味が込められてるってこと?」

「そうです」


 ないない。だって、昔、父親に聞いたことがあるもん。ビール瓶片手に父は答えた。当時流行ってたドラマの主人公の名前から取ったって。すんごく美人の女優さんだったから、千早もあんな色女になってほしいから付けたんだって。その時の父は呆れるくらい顔が赤らんでいた。


「……ありがとう。また今度親に聞いてみる」

「ぜひ聞いてみてください。必ずご両親の想いが込められてるはずです」


 そう言う名城の顔はキラキラと輝いていて、私の密かな心の闇には気が付いていないようだった。別に、親が亡くなっていることも、適当に付けられた名前であることも、隠そうと思った訳じゃない。何も、初対面の後輩に打ち明ける話ではないだろうと理性が働いただけだ。


「それにしても―――――」


 名城はすうっと息を吸った。


「珍しいですね。千早さんのような女性がココを訪ねてくるなんて」


 私の両眉が上がる。


「どういう意味?」

「いえ……、この研究所を訪れる人は千早さんのように気骨のあるような方ばかりではありません。皆一様に覇気がなくて、心に闇を抱えたような人が多いんですよ」


 ドキッ……って、あ、いやいや、色んな苦労はしてきたけど、闇を抱えてるわけじゃあない。


「自分に自信がない人、意志の弱い人、身の回りの全てに対し臆病になっている人、そして過去のトラウマを引き摺り続けている人……、理由は様々ですけど、人格に歪みが生じている方が多いんです」


 名城の目からフッと光が消える。


「見たところ、千早さんはそのような人達とは全く違う。ご自身の中に確固たる意志があって、それを貫いている。誰かに折られることも打たれることを露にも思わない、そういう人のように見えます」


 これ褒められてる? 貶されてるようにも聞こえるけど……、ある意味、それが彼の本心ってことか。好意的に受け止めておこう。少なくとも、あの川名とかいう女よりはマシだ。


「千早さん」


 名城の顔つきが険しくなる。


「貴方、本当にご自身の名前を変えたいと思っていますか?」

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